玄洋社
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玄洋社(げんようしゃ、1881年 - 1946年)は、頭山満ら旧福岡藩士を中心によって、1881年(明治14年)に、国権主義、アジア主義を掲げて結成された国家主義的な政治団体。単純な右翼とは異なりアジア共同体を構築するために、アジア各国の独立運動家たちを積極的に支援した。1946年(昭和21年)、GHQによって解散させられた。
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[編集] 歴史
戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥の橋渡し役として、またテロも辞さぬ暴力機関として政界に隠然たる勢力を誇り、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々の戦争において資金収集や裏工作に関わってきた。またアジア主義の下に、中国の孫文や李氏朝鮮の金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を強力に支援した。
玄洋社が関わった事件として最も有名なものは1889年(明治22年)の大隈重信爆殺未遂事件が上げられる。これは玄洋社社員の来島恒喜が当時の外相で条約改正交渉に当たっていた大隈重信に爆弾を投げつけ、自身はその場で咽喉を斬って自殺したものである。大隈はこれによって右足を失い、辞職に追い込まれた。
また新聞「福陵新報」を1887年(明治20年)8月から発行した。これは1898年(明治31年)に「九州日報」と改題し、さらに1942年(昭和17年)「福岡日日新聞」を合併して「西日本新聞」となり現在に至っている。
[編集] 政治との関連
福岡では今でも玄洋社の影響力が強く、進藤喜平太の子息で、中野正剛の秘書や玄洋社の最後の社長を務めた進藤一馬は福岡市長となった。
多くの玄洋社の運動家を輩出した福岡藩の藩校である修猷館は、現在は県立高校(福岡県立修猷館高等学校)となっており、未だに大きな影響力を持っている。福岡県出身唯一の内閣総理大臣である広田弘毅や東方会を結成した中野正剛、元自由党総裁緒方竹虎、自由民主党の山崎拓なども修猷館の出身である。進藤の跡を継ぎ1986年(昭和61年)から1998年(平成10年)まで福岡市長を務めた桑原敬一も修猷館高校出身である。
また、玄洋社の思想に共鳴した柴田徳次郎によって、早稲田大学の学生を中心に関東一円の学生によって設立されたのが青年大民團である。青年大民團は玄洋社の思想を多くの青年へ教育するための教育機関として私塾國士舘を設立しており、こうした関係から第二次世界大戦直後は国士舘はその名称を変更させられていた時期もあった。
[編集] 記念館
福岡市中央区舞鶴の玄洋社跡地に隣接して建てられた雑居ビル「玄洋ビル」内に、玄洋社関係の各種資料を収蔵した「玄洋社記念館」がある。ひっそりしたところだ。