牧野伸顕
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牧野 伸顕(まきの のぶあき、牧野 伸顯、文久元年10月22日(1861年11月24日) - 1949年1月25日)は明治から戦中にかけての政治家。位階勲等は従一位勲一等伯爵。幼名は伸熊。名は一にシンケンとも通称する。
[編集] 年譜
文久元年10月22日(1861年11月24日)、薩摩国鹿児島城下下加治屋町に薩摩藩士 大久保利通 満寿子の二男として生れた。生後間もなく遠い親戚にあたる牧野吉之丞の養子となる。
1871年、11歳にして父とともに岩倉遣欧使節団に加わり渡米し、フィラデルフィアの中学を経て、大学(後の東京帝国大学)に入学する。1880年、大学を中退して外務省入省。ロンドン大使館に赴任し、憲法調査のため渡欧していた伊藤博文と知りあう。
福井県知事、茨城県知事、文部次官、オーストリア大使、イタリア大使等を経て、第1次西園寺内閣文部大臣、第2次西園寺内閣農商務大臣。さらに枢密顧問官に転じた後、第1次山本内閣外務大臣。この時期、牧野は、伊藤博文およびその後継者である西園寺公望に近く、初期の政友会と関係の深い官僚政治家となり、対外協調的な外交姿勢とリベラリズムによる政治姿勢を基調として薩摩閥により政界、外交界、宮中筋と通じる。1919年、第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。一行の首席は西園寺公望であり、随行員には近衛文麿や女婿吉田茂などがいた。
1921年、宮内大臣就任。同時に子爵授爵。穏健な英米協調派で自由主義的傾向がつよい牧野を宮内大臣に就任させたのは、天皇および宮中周辺に狂信的な人物を置くことで、皇室が政治的な騒乱に巻きこまれることを嫌った西園寺の意向であるという。これ以降、牧野は元老西園寺の意を体して、宮中における自由主義を陰に陽に守り抜くことをその政治的使命とする。1925年、内大臣に転じ、1935年まで在任。退任とともに伯爵に陞爵される。牧野に対する天皇の信頼は厚く、この多難な時期に退任の意向を聞いた昭和天皇が涙を流したという逸話がある。後任の内大臣に湯浅倉平を推薦し、牧野はその後も宮中、外交への影響力を保持し続けようとした。
1936年、二・二六事件の折には親英米派の代表として湯河原の別荘を襲撃され、近親者の機転によって一命をとりとめた。戦中にあっても天皇の信頼はおとろえず、数度宮中に招ぜられて意見具申をしたこともある。
戦後、一転してオールド・リベラリストの一人として評価が高まり、一時は鳩山一郎追放後の自由党総裁に押す声さえあったが、多病と老齢のため、二度と政治の世界に復帰することはなかった。1949年1月25日没。死後ほとんど財産らしきものは残っていなかったという。著作に『松濤閑談』『牧野伸顕回顧録』(孫の吉田健一らが筆記)がある。
[編集] 栄典
- 大正9年9月7日:勲一等旭日桐花大綬章