焚書
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焚書(ふんしょ)とは、書物を焼き払う行為である。
特定の知識以外を焼き払う場合や、特定の思想・学問を焼き払う場合がある。歴史上では、中国の始皇帝による行為や、ナチス・ドイツにおける行為(bibliocaust)が知られる。
始皇帝の焚書
秦の始皇帝は、紀元前213年、李斯の提案にしたがって、焚書を行った。その内容は、次の通りであった。
- 秦以外の諸国の歴史書の焼却
- 民間人は、医学・占い・農業以外の書物を守尉に渡し、守尉はそれを焼却する
- 30日以内に、守尉に渡さなかったならば、入墨の刑に処する
- 法律は、官吏がこれを教える(民間の独自解釈による教育を禁じると言うこと)
始皇帝の焚書により、様々な書物の原典が失われた。しかし、壁の中に書物を隠す*注1などして書物を守った人もおり、それが、秦の滅亡後再発見され学問の研究に役立った。また、儒教の書物が狙われたと考えられがちであるが、他の諸子百家の書物も燃やされたことにも留意するべきであろう。
- 注1 当時は、紙が発明されていなかったので、もっぱら木簡や竹簡に文章が書かれていた。そのため、壁に埋めて、上から塗りこめても書物が駄目になる可能性は低かった。
焚書以降、儒学者達は、占いの本であったために燃やされなかった『易』をよりどころとして理論を展開するようになっていった。
この始皇帝の政策を法家以外の思想、特に儒家を弾圧するためのものと説明されることが多い。しかし、これは漢代以後儒家が秦王朝を批判するために述べたもので事実とは異なる。実際には当時の儒家の勢力は大したものではなく、特定的に儒家を弾圧したわけではない。この政策の意義は思想弾圧と言うよりは、愚民政策を実行したものと考えられる。