坑儒
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坑儒(こうじゅ)とは、儒者を生きたまま穴埋めにすること。歴史的には、秦の始皇帝により、紀元前212年に行われたものをさす。
秦の始皇帝は、不老不死を望んで方士の盧生や侯生と言ったものたちに巨額の資金を出して仙薬作りを行わせていた。しかし当然そのような薬が実現できようはずもなく、盧生は始皇帝が残虐だと言って逃げたため、始皇帝は怒り、咸陽中の学者を尋問し、盧生のように人を惑わすような人間を挙げるように命令した。
結局、咸陽の460人の学者を見せしめに穴埋めにした。
このことについて、始皇帝の長男である扶蘇は諌めたが、始皇帝の怒りを買い、北方防衛の任務に就かされることとなった。
なお、「儒」という言葉がつかわれているが、これは後世の儒者たちが自分たちが弾圧されたと言う文脈で語ろうとしたためのものであり、実際には坑儒の中で儒者の割合がそれほど多かったわけではない。坑儒は思想弾圧政策と言ったものではなく、始皇帝の感情的なことから出たことに過ぎない。そもそも、儒者の中には易占いの専門家としてその後も始皇帝に仕えていたと思われる者もいる(始皇帝の死の直後にも2代皇帝胡亥が一人の儒者の意見を求めている)。
また、「坑」という言葉を閉じ込めるという意味で捉える考えもあるが、生きたまま穴埋めにすることと捉える方が自然であろう。