浸透戦術
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浸透戦術(しんとうせんじゅつ、Infiltration tactics)とは、軍事戦術のひとつである。この戦術は、敵陣の突破を主眼に置き、敵に気づかれる事無く、敵陣内部に浸透する事によって敵軍を無力化・殲滅することが第一目標である。第一次世界大戦中にロシアのブルシロフが考案し、ドイツのフーチェルが取り入れた。フーチェル戦術。
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[編集] 概要
浸透戦術は第一次世界大戦において塹壕戦が本格化するにつれて、塹壕突破の為に考え出された戦術である。自軍の損害を最小限に抑え、戦果を拡大するために、敵の第一線に気が付かれることなく、第一線を突破する。その後は敵の防衛線の内側で分散行動に入るのが特徴である。もしくは、最初から全面攻撃を繰り返す中で、同様に小規模の兵力を敵の内線に送り込む。
このように敵の第一線をその場に止めつつ突破する事で、敵の砲兵は自軍の浸透兵力を目標に出来なくなる。その後はその浸透兵力が分散合撃を繰り返し、内線攪乱、司令部襲撃などを行う事で、結果的に第一線を孤立させ、最終的にその戦域全体の戦闘を命令系統切断や残敵包囲によって終結に追い込む。
この戦術は歩兵と砲兵のみで実施されるものであり、塹壕戦に対する戦術である事から機動兵力の使用は無い。また、歩兵が徒歩で敵陣に浸透するため補給は不可能であり、数日の行動の後補給の為に停止せざるをえない。そのため、追撃や領土拡大には向かず、敵軍撃滅を主眼にした戦術である。
その上、小規模の兵力が敵陣奥深くで長時間行動しなくてはならず、これは指揮官にかなりのフリーハンドを強いる。そのため、教養・軍事的素質に優れた下士官が統率していないと援護や効果的な攪乱はおろか行動不能に陥る。
この浸透戦術の延長線上のものである現場の下位指揮官の小部隊に戦闘指揮判断の大部分を委任するということは、現代の歩兵戦術にも取り入れられている。
[編集] 浸透戦術の歴史
第一次世界大戦中盤、ロシアの軍人ブルシロフが初めてこの戦術によって大勝利を収め、彼の名をとってブルシロフ攻勢と呼ばれている。第一次世界大戦で唯一の攻勢側の「大勝利」である。その後帝政ロシアが革命によって戦争から脱落したため、この戦術を研究し西部戦線で使用したドイツのフーチェルの名をとってフーチェル戦術とも呼ぶ。大戦末期においてはフランス軍の攻勢防御がフーチェル戦術を打ち破り、フランス軍も攻撃の際には浸透戦術を使用した。
しかし、この浸透戦術は歩兵の戦術として強く生き続けた。列強各国は初等教育の普及を背景にこの戦術を自国に取り込み、最も成功した国が日本であった。同じく浸透戦術を取り入れたフランスは、新たな戦術体系である電撃戦によってドイツに大敗する事となる。
現代歩兵の戦術体系は、やはりこの戦術の発展系が基礎となっている。連絡手段の発達や機械化歩兵の登場による機動力の確保、軍隊の職業軍人化によって下士官への高度な作戦教育が可能になった事で、この戦術の真価が発揮できるようになっているからである。
[編集] 肉弾戦術
帝国陸軍が第一次世界大戦の戦訓を元に戦間期の陸軍基本戦術としたのがこの浸透戦術である。旧陸軍はこの戦術を肉弾突撃と名づけた。これは別に戦車に兵が地雷を持って突撃する事ではなく、分隊等の小単位の兵力が相互に援護し合いながら敵陣を突破する戦術である。
分隊レベルを指揮する下士官に戦闘面でかなりの選択を迫る戦術である。彼らは一部隊の指揮官として援護・突破・防御を自由に行う手形が最初から与えられている。このような戦術を基本として採択した事により。帝国陸軍は非常に優秀な下士官をそろえる事に成功したが、一方でこの部下ある範囲で独断専行を許す戦術は、昭和陸軍の蛮行の一因となった事は間違いないだろう。
この浸透戦術の成功例が第二次上海事変である。日中戦争においてファルケンハウゼンの作戦に従い、蒋介石が中支方面で日本軍に攻撃かけた。これにより盧溝橋事件以降の北支事変が一気に中国全土に波及する。
面目躍如というべきか、ファルケンハウゼンの立てた、上海・南京間に立ちはだかるゼークトラインに上海の日本軍をひきつけて損耗を迫るという作戦計画に対して、日本軍は兵力的に劣勢にもかかわらずその要塞陣を各所で突破した。これにより国民党軍の戦線は崩壊し、我先にと南京へ敗走した。蒋介石も日本軍が南京に迫るとあわてて南京を脱出している。
このとき陸軍首脳は追撃停止を命令したが、現地は独断専行により進撃、南京に迫った。蒋介石が南京方面の総司令官を指名せずに逃げ出したため、南京に敗走した国民党軍は降伏することも命令系統を回復する事も出来ず、その結果南京事件に繋がった。この一連の戦闘は完全に第一次世界大戦型から発展された戦術で戦われ、国民党軍が30万の兵力を集中させ、突破したのが日本軍である事を考えると、日本軍の数万という損害は異常なほど少ない。このことは日本軍と中国国民党軍の練度の差を証明する物である。