沼津市立沼津高等学校
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沼津市立沼津高等学校(ぬまづしりつぬまづこうとうがっこう)は静岡県沼津市にある高等学校。2003年度より併設中学校を設立し、全国でもまだ珍しい公立の中高一貫校となった。
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[編集] 沿革
[編集] 経緯
旧制沼津中の教頭であった石内直太郎は戦後の焼け野原を前に「これからの日本を作っていくのは戦前のようなエリート教育ではなく名も無き雑草たちである」と唱え、「一匹の迷える子羊を救え」を教育理念に掲げ新たな教育機関の設立に尽力した。 そうして設立された本校は学制改革の中で存続の危機を迎えるも学校法人化して乗り越えるなど、普通の公立校にはない経緯を経てる。
[編集] 過去に存在した科
現在は全日制普通科のみとなった本校には以前、商業科と衛生看護科があった。
商業科は1学年2学級。県立の沼津商業高が沼津とは言いつつも郊外の駿東郡清水町に校舎があり通学に不便なため、市立沼津高の商業科を選択したという者もいた。 また運動部にて優秀な成績を収めた者の推薦入学先としても商業科は活用されていた。商業科が廃止されてからスポーツ強豪校の名に陰りが見え始めたとも言われる。
衛生看護科、通称・衛看(えいかん)は看護婦を目指す学習をする科。 全て女子生徒のみの1学年1学級でクラス替えの無いまま3年間を過ごし、卒業後は引き続き2年生の専攻科に進むため、独特の存在であった。 ピンク色の白衣姿を着た看護科の生徒や、高校と違う制服である19~20歳の専攻科の生徒たちを校内で見かけるのは不思議な雰囲気さえ感じさせた。 現在は廃止され、沼津市の看護教育は平成18年度開校の沼津市立看護専門学校に移管されている。
[編集] 年表
- 1946年(昭和21年) 沼津市東熊堂に旧制の沼津市立第一中学校として開校。
- 1948年(昭和23年) 新制の沼津市立沼津高等学校に改称。
- 1950年(昭和25年) 学校法人沼津高等学校となる。
- 1952年(昭和27年) 学校法人を廃し、再び沼津市立沼津高等学校となる。商業科設置。
- 1957年(昭和32年) 初代校長・石内直太郎先生が逝去。
- 1962年(昭和37年) 現在の沼津市三枚橋字鐘突免に移転。
- 1965年(昭和40年) 衛生看護科設置
- 1968年(昭和43年) 衛生看護科の専攻科設置。高校3年間終了後に2年間修業。
- 1988年(昭和63年) 沼津市立病院敷地内に専攻科校舎が竣工、専攻科のみ移転。
- 1993年(平成 5年) 商業科閉科
- 2003年(平成15年) 衛生看護科閉科。併設中等部開校。
- 2005年(平成17年) 専攻科閉科(平成18年度より沼津市立看護専門学校が開校)
[編集] 校風
[編集] 求道
校訓は「求道」(ぐどう) 戦後の焼け野原の中で、レールの敷かれたエリートコースではなく自ら求めて道を歩んで行く在り方を求めた言葉。 校訓である「求道」と並び、「雑草の如き逞しさ」という言葉もよく用いられる。
校歌の中にも「友の情けに日も食わず」「國の憂いに夜も寝ず」「貧しさなんぞ恥あらん」「地にひれ伏して恥に哭け」 など、求道の精神と雑草の如き逞しさを謳った歌詞が並べられてる。
[編集] 中高一貫教育
平成15年度より併設中学を設置。公立の中高一貫校の先駆けとなる。 中等部は1学年2学級のみであり生徒数も少ないので、部活動は高校生と共に行う。 高校から3学級が入学して計5学級となるが、中等部からの生徒は6年間を通したカリキュラムで学ぶため、学級を混合されることはない。
中等部と高校には別々の校長がいるため、市立沼津高には2人の校長がいることになる。 高校の校長は現在、銀行取締役出身で教育免許を持たない民間校長が就任してる。
[編集] 略称
公式の略称は「沼高」(ぬまこう)だが、地元で「ヌマコウ」と言うと沼津工業高を指す場合が多いのでまず使われることはない。 第一応援歌の3番の歌詞に登場するのと、野球応援のエール交換に用いられるのみである。 近隣に市立高校が他に無いため、単純に「市立高」(しりつこう)又は「市立」(いちりつ)と呼ばれることが多い。 遠方に行く場合は「市立沼津」(いちりつぬまづ)又は「沼市」(ぬまいち)の呼称を使う。
[編集] 学校行事
[編集] 鷹峯祭
5月末~6月上旬頃に行われる文化祭と体育祭。 「鷹峯祭」と書いて「ようほうさい」と読む。峯の字を峰と誤記されることが多い。 沼津東高の「香陵祭」が市内中心部の山である香貫山(標高193m)を由来としてるのに対抗し、市内最高峰である愛鷹山(標高1188m)を学園祭の名称に用いたのではないかと思われる。
[編集] 月見遠足
夜に出発し、深夜を通して山中を歩き続け、翌朝未明に終了する遠足。 戦後の何も無い時代に手作りで行事を作り上げようと企画された催し。
平成初期までは夜通し歩く方式が存続されていたが、近年は深夜の遠足への反発も高まり、昼間に出発して月が出る頃に終了する遠足に変更されてしまっている。
[編集] 部活動
全国レベルで優秀な成績を修めた運動部が多い。
[編集] 野球部
- 1957年(昭和32年)王貞治の早稲田実業が優勝した春の選抜高校野球に出場、初戦敗退。
- 1991年(平成3年)夏の県大会でエース・森中聖雄要する東海大工を破って夏の甲子園初出場。初戦で松井秀喜が四番打者の星稜高と対戦、接戦の末敗れる。
[編集] 女子バスケ部
- 1988年(昭和63年)全国高校バスケ選抜大会で3位入賞。
- その後も含めて計3度の全国3位、2度の4位を達成している。
[編集] 弓道部
- 1956年(昭和31年)第1回高校総体で男子団体、女子団体が共に全国優勝。男子個人でも優勝、準優勝を果たす。
- その後も男女共に数回の全国優勝を果たし、全国大会の常連校として名を馳せる。
[編集] 柔道部
- 1966年(昭和41年)大分国体で根木谷信一が優勝。
- 1985年(昭和60年)全日本選手権で佐々木光が優勝。世界選手権日本代表に選ばれる。
- 1992年(平成 4年)ポーランドジュニア国際で久保田有希が準優勝。
[編集] 著名な卒業生
- 安藤治久 阪急ブレーブス'59~'64年在籍のプロ野球選手
- 佐々木光 '88年ソウル五輪女子柔道66kg級金メダル
- 西風 漫画家
- 久保田有希 女子プロ総合格闘家。アマチュア時代にポーランド国際柔道で準優勝。