毛利光房
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毛利光房(もうり みつふさ 元中3年/至徳3年(1386年) - 永享8年(1436年))は毛利氏当主。毛利広房の嫡子。毛利煕元の父。初名は之房、後に光房と改名。
光房が出生する前に父親の広房が安芸西条にて討死し、祖父の元春の下で成長していくこととなる。
応永の安芸国人一揆においてリーダー的役割を果たしたことにより、毛利光房は幕府からもその立場を認められて、右馬頭に任じられた。しかし毛利一族内では庶家の台頭により、光房の立場は非常に不安定なものであった。
1418年(応永25年)頃、毛利氏惣領家と庶家との間の対立が激化した。吉田郡山城は庶家の攻撃を受けるに際し、在京していた光房は福原広世に嫡子煕元の支援を依頼。福原広世の救援で庶家を撃退した。この毛利氏の内訌には近隣の平賀・宍戸・高橋らの国人衆が調停に立ち、煕元とその後見役である福原広世、他の庶家との間で一応の和解がなった。
光房の苦闘はこの後も続き、足利義満の命をうけて周防に大内盛見を攻めたり、九州にも遠征するなどしたが、1436年(永享8年)、九州の地にて陣没。