武田義信
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武田 義信(たけだ よしのぶ、天文7年(1538年) - 永禄10年10月19日(1567年11月19日))は戦国時代の武将。武田信玄の嫡男。幼名・太郎。武田勝頼の異母兄。母は三条の方。正室は今川義元の娘。
[編集] 経歴
1550年に13歳で元服し、足利義輝より偏諱を受け義信と名乗る。1552年に武田家が今川家・北条家と甲駿相三国同盟を締結した際に義元の娘を正室として娶る。有能な武人であり、1554年の信濃知久氏攻めで初陣。1561年の第4回川中島の戦いにも出陣し、武功を挙げたが、味方を窮地に陥れたとして信玄と反目する。
1560年に今川義元が織田信長に討たれて今川氏が次第に衰退してゆくと、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河侵攻を企み、且つ織田氏と誼を通じた。これに反発して父との不和は悪化、1565年に傳役・飯富虎昌を通じて謀反を起こす。しかし計画は露見し、虎昌は謀反の首謀者として切腹し、義信も同年9月、東光寺に幽閉され、義元の娘と強制的に離縁、廃嫡される。それから2年後、失意のうちに死去したとされる(死因については自害説が定説であるが、病死説もあり、また、異説としては同じ甲斐源氏の氏族である南部氏へ送られたという説があるが信憑性は低い。)
[編集] 人物
近年の研究では、智勇兼備の武将で、武田家の重臣たちの間でも人望が厚かったという。しかし父・信玄が生母・三条の方と折り合いが悪かったこと、側室として迎えた諏訪頼重の娘・諏訪御料人(諏訪御寮人)とその間に生まれた勝頼を溺愛し、義信より勝頼を後継者としたかったこと等から、父と対立したと言われる。この義信事件は武田氏のその後に暗い影を落とす。例えば武田氏滅亡直前の1582年に穴山信君が勝頼を裏切ったが、その原因の一つに彼は義信と親しかったためと言われている。また、信玄の死後に老臣たちが勝頼とウマが合わなかったのも、義信事件が一因でもある。言わば、義信事件は武田氏滅亡の一因にまでつながったのである。 墓所は甲府市の東光寺。