武内俊子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武内 俊子(たけうち としこ、1905年(明治38年)9月10日-1945年(昭和20年)4月7日)は 童謡詩人、童謡作詞家、童話作家。
1905年(明治38年)広島県三原市西町の浄念寺に生まれる。学齢期を広島市で送り、広島女子専門学校(現・広島県立大学)に進学したが,中途で退学。その後,結婚して東京の世田谷に居住。1929年(昭和4年)頃から、童謡や童話の創作を始める。女性の社会進出が困難を伴った昭和初期にあって、四人の子供の育児と両立させ創作に励んだお母さん詩人だった。赤ん坊におっぱいを飲ませながら、アイデアを書き留めたという。1933年(昭和8年)の処女詩集『風』にその思いが綴られている。(言葉に溢れてゐる童心から強い刺激を受け)(母のみ知る悦びを謡ふ)(子どもと共に風の子となって謡ひたい)。
子どもの視点から心の清らかさを歌うやさしい詩が,詩人の野口雨情に認められ、当時の主要児童誌『コドモノクニ』や『幼年倶楽部』につぎつぎと作品を発表。1937年(昭和12年)5月、キングレコードの童謡シリーズの一曲として、「かもめの水兵さん」が作詞俊子、作曲河村光陽、歌・光陽の娘11歳の順子で発売され、戦前の童謡の中では最大のヒットを記録した。その後も河村光陽らのすぐれた作曲で「赤い帽子・白い帽子」、「リンゴのヒトリゴト」、「船頭さん」などのヒットを連発し一時代を築き、これらの歌は広く全国の子どもたちに愛唱されるようになった。
特に「かもめの水兵さん」は小学校のお遊戯などで盛んに使われて広まり、日本だけでは無くアメリカやフランス、ドイツ、韓国などでも歌われ、陽気に童心を歌ったこの歌は、今も国境や世代の壁を越えて広がっている。
1945年(昭和20年)終戦間近の4月、東京の自宅で病死。 享年39。 この時代、もし俊子が日本の陸・海軍の主要拠点が置かれた広島に居住のままだったら、創作を続けられていたかどうか
著書には、前述の作品以外に『武内俊子童謡集』などがある。お墓は広島市中区江波(えば)二本松の慈仙寺に、また三原市宮浦公園には「かもめの水兵さん」の童謡の碑が建てられている。尚、僧侶であり世界探険家の渡辺哲信は俊子の叔父にあたる。