橘曙覧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
橘曙覧(たちばなあけみ、文化9年(1812年) - 慶応4年8月28日(1868年10月13日))は、幕末の歌人。越前国石場町(現・福井県福井市つくも町)に生まれる。生家は、紙、筆、墨などと家伝薬を扱う商家で、父親は正玄(正源とも表記)五郎衛門。彼は長男として生まれ、名は五三郎茂時。後に、尚事(なおこと)、さらに橘曙覧と改名する。橘諸兄の血筋を引く橘氏の家柄と称し、そこから国学の師である田中大秀から号として橘の名を与えられ、橘曙覧と称した。
2歳で母に死別、15歳で父が死去。叔父の後見を受け、家業を継ごうとするが、嫌気をさし、28歳で家督を弟の宣に譲り、隠遁。京都の頼山陽の弟子、児玉三郎の家塾に学んだりなどする。その後、飛騨高山の田中大秀に入門し、歌を詩作するようになる。田中大秀は、本居宣長の国学の弟子でもあり、曙覧は、宣長の諡号「秋津彦美豆桜根大人之霊位」を書いてもらい、それを床の間に奉って、独学で歌人としての精進を続ける。妻子を門弟からの援助、寺子屋の月謝などで養い、清貧な生活に甘んじた。当初足羽山で隠遁していたが、37歳の時、三ツ橋に住居を移し、「藁屋」(わらのや)と自称した。彼の学を伝え聞いて、1865年、松平春嶽が、家老の中根雪江を案内に、仕官を求めにやってきたのは、そこである。
橘曙覧の長男、今滋に『橘曙覧小伝』がある。また彼は父の残した歌を編集し、1878年(明治11年)『橘曙覧遺稿志濃夫廻舎歌集』(しのぶのやかしゅう)を編纂した。これが正岡子規に、源実朝以来、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人と絶賛され、彼の名は文学史に残るものとなった。「清貧の歌人」というのは、子規が彼を評していったものと伝えられる。
彼の歌を編纂したもので『独楽吟』がある。「たのしみは」で始まる一連の歌を集めたものである。1994年、天皇皇后両陛下がアメリカを訪問された折、ビル・クリントン大統領が歓迎の挨拶の中で、この中の歌のひとつを引用してスピーチをしたことで、その名は歌は再び脚光を浴びることになった。