楊儀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
楊儀(ようぎ、?-235年)は、中国の三国時代の蜀の重臣。男性。字は威公。兄に楊慮がいる。
もとは魏の臣であったが、関羽のもとへ降り、劉備に気に入られて、その家臣となる。219年、劉備が漢中王になると尚書になったが、221年に劉備が皇帝として即位すると、同僚の劉巴と喧嘩をして罷免された。だが諸葛亮と仲が良かったため、劉備が没した後、再び取り立てられて丞相参軍(幕僚)・丞相長史(主席幕僚)と累進して孔明の補佐に当たった。
諸葛亮の出征時、事務処理に優れていた楊儀は、丞相府の幕僚の筆頭として、部隊編成の計画立案・軍需物資の確保などの重要な任務を滞りなく処理し、その才幹を高く評価された。ただ、自分の才覚を鼻にかけ、狭量なところがあり、将軍の魏延と平素から仲が悪かった。魏延が白刃で楊儀を脅し、楊儀がこれを恐れて泣くような時もあったといわれる。諸葛亮は楊儀の才能と魏延の剛勇いずれも評価しており、二人が不仲なのに心を痛めていたという。こうした中、蜀を支えていた諸葛亮が234年に魏との対峙中の五丈原で病死、楊儀は諸葛亮の遺言に従って諸将を統御し、全軍撤退を成功させた。この時、魏延は撤退命令に従わなかった上、兵を挙げて楊儀を討とうとしたが、諸将のいずれもが楊儀につき、魏延の配下の兵士までもが彼を見捨てて楊儀に寝返ったため、魏延およびその三族は殺される結果に終わった。『三国志』蜀書・魏延伝によると、楊儀は届けられた魏延の首を踏みつけて、「愚か者め、もう悪事はできないであろう」と言ったと伝わる。
楊儀は諸葛亮の死後、自らが後継者にふさわしいと考えていたが、結局その重職を引き継いだのは蒋琬であり、楊儀ではなかった。これは生前の諸葛亮が、楊儀の能力は評価していたが、その狭量な性格を問題視しており、自らの後継者は彼よりも蒋琬が適任であると考えていたからであった。これに不満を持った彼は費禕に「こんなことになるなら、武侯(諸葛亮)が死んだ時魏に寝返っていれば良かった」と漏らした。費禕はその内容を蜀の後主劉禅に密かに報告した。これによって楊儀は免官とされ、平民に落とされ漢嘉郡に流罪となった。ところが楊儀はさらに流刑地から激越な他人を誹謗する上書を送り続けたために、朝廷はついに楊儀を拘束した。捕らえられると楊儀は自殺したが、その妻子は成都に戻ることを許された。
魏延と楊儀は、ともに才能があり、諸葛亮のもとで重要な任務を負いながら、その死後互いに協調する姿勢を取らず、政争に走り自滅したと言えよう。