劉巴
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劉巴(りゅうは、186年-222年?)は、三国時代の蜀の武将。字は子初。劉曜の孫、劉祥の子。
荊州零陵郡蒸陽の人。才能に優れ、若くして茂才に推挙される。後に荊州牧の劉表に仕えた。208年、曹操が荊州に進出してくると、その家臣として仕えた。しかし、曹操が赤壁の戦いで敗れ、その後、劉備が荊州を支配すると曹操のもとへ戻れなくなってしまう。しかし劉巴は劉備の家臣になることを嫌い、交州へ逃亡した。その直後、益州に赴いて劉璋の家臣となる。
劉璋が劉備を益州に招こうとしたとき、黄権と共にこれに猛反対した。また、劉璋が劉備に降伏しようとしたときもこれに猛反対し、劉備が蜀の君主となった後は、劉備に仕えることを嫌って隠遁した。しかし、劉備に家臣になるよう請われたため、その家臣となった。劉備が漢中王になると尚書となり、法正が死去すると尚書令となった。劉巴は政治能力に優れていたため、諸葛亮らと共に蜀の法律である『蜀科』を制定した。また、官位が昇進しても奢ることが無く、贅沢もせず、慎み深い質素な生活をしていたため、下々からの人望は厚かった。その一方で士大夫としての自負が強く、『零陵先賢伝』によると、劉備の宿将で庶人出身の張飛が劉巴の元に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。さすがに張飛はそのあと腹を立て、諸葛亮が劉巴に取りなしたが、劉巴は「大丈夫(立派な男)がこの世に生きて行くためには、当然四海の英雄と交わるべきです。どうして兵隊野郎(張飛のこと)と語り合う必要がありましょうか」と言うばかりだった(ちなみにこの話を聞いた呉の孫権が重臣の張昭に対して、主君である劉備が張飛を深く信用している事を劉巴が知らない訳がないのにそうした態度を取るのは臣下としてはどうなのかと問うたところ、張昭は主君の顔色を見て対応を変えるほうが却って人物を疑われるものであるとして劉巴を弁護している)。