植村正久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
植村 正久(うえむら まさひさ、1858年1月15日〔安政4年12月1日〕 - 1925年(大正14年)1月8日)は、日本の思想家・キリスト教の伝道者・牧師・神学者。号は「謙堂」あるいは「桔梗生」など。
1,500石どりの旗本の長男に生まれるが、幕府の瓦解とともに生家は没落する。横浜へ出て薪炭商などを営むなかで、J・H・バラの学塾に通ってキリスト教に接し、横浜日本基督公会で1873年5月にバラから洗礼を受ける。当時、日本には、プロテスタントの集まりであるミッションバンドが、札幌や横浜などにあったが、植村は横浜バンドと呼ばれるグループにいた。
1858年、幕臣の家に生まれる。植村家は、徳川家に仕えた最古参の旗本の一つである。大政奉還とともに一家が没落し、家運挽回のため、英学を修めて新時代に立とうとした。横山修文館、ブラウン塾に学ぶ。J.A.バラのもと1873年、キリスト教の洗礼を受ける。伝道者になることを決心し、東京一致神学校に学び、東京下谷に伝道を開始。明治20年、東京一番町一致教会を設立。(現・日本基督教団 富士見町教会)生涯その教会の牧師として働く。そして明治学院教授、東京神学社(現・東京神学大学)を創立した。伝道者の育成や神学研究、伝道への活動を通して日本の教会形成に尽力した。「福音新報」と「日本評論」を刊行し、つねに日本の教会の立場、主義主張をキリスト教界内外に明確にした。聖書の中核である福音を日本の教会に移植することに努めた。また、日本基督教会大会の自立独立につとめる。彼は青年時代すでに福音主義を理解・把握していた。その理解が明治以来のキリスト教とともに入ってきた「唯物論」「不可知論」「実証論」「自由神学」国粋主義への論駁するための構造、神学にまで高められたからである。著書として「真理一斑」などがある。他に論文が「基督教新聞」「福音新報」「日本評論」に多数、記された。