梅田事件
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梅田事件(うめだじけん)とは、1950年(昭和25年)および1951年(昭和26年)に発生した2件の強盗殺人事件と、それに付随して生じた冤罪事件である。なお事件名は2人の実行犯(実際にはもうひとり未検挙の共犯がいる可能性が指摘されている)によって無実の罪を着せられた男性の名に由来する。
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[編集] 事件の概要
- 第一の事件
- 1950年10月 北海道の北見営林署職員(当時20歳)が19万円の公金を持って失踪。
- 第二の事件
- 1951年6月 留辺蘂営林局会計課職員(当時28歳)が480万円の公金を持って失踪。
いずれの事件も最初は、犯人らによる巧妙な偽造工作のため、職員が公金を横領し逃亡したと見られていた。しかし第二の被害者の射殺遺体を1952年9月になって偶然野犬が掘り出したことで事件が露見した。
[編集] 冤罪
犯人として逮捕されたS(当時53歳)はすぐに犯行を自供し、首謀者としてH(当時28歳)であることも判明した。Hは第一の事件のことも自白したために全て事件は解決したかにみえた。しかしHは自己の罪を軽くしようとしたためか、軍隊時代に顔見知りだったU(当時28歳)が第一の事件の殺害の実行犯であると虚偽の「自白」をした。
そのため、Uは10月2日に北見市警(当時は自治体警察)に逮捕され、凄まじい拷問を加え自白させた。その後自供を一転し無実を訴えたが、共犯者の自白を完全に鵜呑みしていた検事は否認調書を作成しないまま、殺人罪で起訴した。
その後の裁判ではHに死刑、Sと冤罪のUに無期懲役を宣告し確定した。なおHであるが1960年(月日不明)に処刑され、Sも仮出所した。その後Uは1962年に再審請求をしたが、最高裁までいったが棄却された。Uは1971年5月に18年7ヶ月の服役の後に網走刑務所を仮出所した。彼は北見市に帰郷したのちも再審請求活動を続けた。1982年12月10日に釧路地裁は再審を決定し。1986年8月27日に釧路地裁はUに無罪判決を出し、逮捕34年にして冤罪であったことが確定した。
[編集] 事件の疑問点
再審裁判でUが無罪になったのは、下記のような矛盾点があったことが明らかになったことである。
- HとUを結びつける物的証拠が一切存在しない。
- Hの自供ではUはバットで被害者を撲殺したとあるが、犯行時Uが着用していたとされた海軍作業着からは血痕が検出されなかった。
- 起訴前に検事宛に提出した無罪を訴える手紙の存在。
- 自白と犯行態様の決定的な矛盾の証明。
- Hが獄中でUは事件に関与していないと聞かされたという囚人の証言
以上のことから、捜査機関はHの虚偽の証言を間違いないと鵜呑みした事が冤罪を引き起こしたが確定した。なお、Hの証言では第一の事件にくわえ第二の事件も3人による犯行としていた。第二の事件の3人目の「共犯者」として誰も逮捕起訴されていないが、実際に2つの事件とも第三の犯人が存在していた可能性がある。この犯人はHの親族であるといわれており、評論家の青地晨が、その人物をレポートした「魔の時間」を出したが、職員2人から強奪した多額の現金の使途も含め主犯のHが処刑された現在では真相は闇の中であるといわざるを得ない。
[編集] 参考文献
- 「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大辞典」、東京法経学院出版、2002年、64頁~65頁、