松平康英 (長崎奉行)
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松平 康英(まつだいら やすひで、明和5年2月5日(1768年3月23日) - 文化5年8月17日(1808年10月6日))は江戸時代後期の長崎奉行。高家旗本前田清長(隠岐守)の三男。別名は康秀、康平。幼名は栄之助、通称は伊織。官位は従五位下図書頭。
公的には宝暦11年(1761年)生まれとしていたが、実際には明和5年2月5日生まれである(「前田家系譜」)。安永6年(1777年)7月11日、幕府小普請組戸川山城守支配松平舎人康疆(松平・松井家分家)の婿養子となり、松平家の家督を相続する。松平家は、2000石の旗本であった。天明8年(1788年)12月24日中奥番士となる。寛政6年(1794年)11月17日御徒頭となる。同年12月16日布衣を許される。寛政8年(1796年)5月24日西丸目付となる。文化4年(1807年)1月30日、長崎奉行に就任する。文化5年(1808年)6月に長崎でのロシア船処分法、8月初めにロシア船渡来の際の港湾警備法を定める。
同年8月15日、イギリス船フェートン号がオランダ船拿捕の為にオランダ国旗を掲げて長崎港に入り、オランダ商館員2人の捕縛・長崎港内の捜索を行なう事件を起こした(フェートン号事件)。それに際し康英は福岡藩・佐賀藩・大村藩などの派兵に打払いを命じるものの兵力がわずかしかいなかったり到着が遅れるなどし、また翌16日にフェートン号側から薪水と食料を提供しなければ長崎港内の船舶や長崎の町を焼き討ちすると脅迫を受けたため、やむなくこれに従う。そしてイギリス船が人質を解放して長崎を去った17日、他国の脅迫に屈してしまった国辱の責任を取り、切腹して自害した。享年41。
実家である高家の「前田家系譜」「前田家先祖書」によれば、康英の読み方は、「やすひで」と読まず「やすふさ」と記されている。また、康英の死については、「長崎奉行勤役中文化5年戊辰8月26日病死す。勤役中に付長崎に於て埋葬す。墓所は西久保天徳寺にあり。法号・現光院」となっている。幕府への公式な届け出は、切腹による自害でなく、病死として扱われ、死亡日も自害した17日でなく、26日となっている。長崎奉行の切腹が、幕閣にあたえた衝撃は大きいものであった。