松前城
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松前城天守 | |
通称 |
福山城 |
城郭構造 |
平城 |
天守構造 |
層塔型天守(三層三階) |
築城主 |
松前崇広 |
築城年 |
1849年 |
主な改修者 |
松前氏 |
主な城主 |
松前氏 |
廃城年 |
1875年 |
遺構 |
門、御殿玄関、石垣、土塁 |
松前城(まつまえじょう)は北海道渡島支庁管内松前町にある城。別名は福山城(ふくやまじょう)。
目次 |
[編集] 概要
日本における最後の旧式城郭である。戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す旧幕府の軍(元新選組の土方歳三が率いていた)と攻防を繰り広げ、落城させられたことでも有名である。旧城内一帯が国指定史跡、また、築城時から現存する本丸御門が国の重要文化財に指定されている。
[編集] 沿革
[編集] 築城
嘉永2年(1849年)、幕府は北方警備を目的に松前崇広に築城を命じた。築城計画の際、現在地の福山ではなく、地形的に要害となりうる箱館の臥牛山(函館山)に築城するべきという意見もあったが、城下の商人が城が移転することで経済的打撃を受けて松前港は寂れてしまうと猛反対したり、予算があまりないということもあって、当時の松前氏の居館であった福山館を拡張する築城法で落ち着いた。(臥牛山築城案の方が正しかったことは、後に帝国陸軍が臥牛山山頂部に函館山要塞を築いたことで証明された。)
長沼流兵学者・市川一学の縄張りにより旧福山館の拡張・改築を行い、この時に初めて三重櫓の天守をつくり、安政元年(1854年)に落成した。海側からの艦砲射撃に備えて砲台を備え、かつ城壁の中に鉄板を仕込んでおり、城の本丸方の虎口から本丸までの通路は複雑かつ側面から鉄砲などで射撃しやすい構造とした。また、石垣についても、北地のために石垣の奥の土が解凍の際に流れ出してしまわないよう、隙間のないように石が敷き詰められるなどの工夫がなされている。ただし城の中心である福山の台地から海岸まではあまり距離がなかったので、大規模な城郭とすることはできなかった。
[編集] 戊辰戦争における攻防戦と落城
幕末の築城にも関わらず、松前城は激しい攻防戦を体験している。明治元年(1868年)秋、蝦夷が島に独立政権樹立を目指す旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、渡島半島の各地を制圧し、11月5日にはもと新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。松前藩の軍は防戦に努めたものの、わずか数時間で落城してしまった。これは、函館湾からの旧幕府軍軍艦の艦砲射撃もさることながら、城の構えがあまりにもろいものであったためである。長沼流の軍学者であった市川は、大手門からの通路は曲がりくねって鉄砲の的になりやすい効果的な構えとしたが、搦手方は敵は攻めてこないものとして、直線に通路が続き鉄砲狭間も少ない防御力の低い配備としていたのである。これを土方に衝かれた形となってしまった。現在も石垣にこのときの弾痕がいくつも残っている。
しかし翌年に榎本らの政権は降伏し、再び松前城は松前氏の領有となり、明治4年(1871年)の廃藩置県の施行により城は明治政府の領有となった。明治8年(1875年)には天守など本丸の施設を除くほとんどの建築物が取り壊された。
[編集] 昭和以後
その後、昭和16年(1941年)に天守、本丸御門、本丸御門東塀が当時の国宝に指定されたものの、昭和24年(1949年)6月5日、城跡にあった松前町役場からの出火が飛び火して天守と本丸御門東塀は焼失した。天守は昭和34年(1959年)から36年にかけ、松前城資料館として鉄筋コンクリート造で再建されている。創建当時から現存する建築物は本丸御門と本丸表御殿玄関及び旧寺町御門(現在の阿吽寺の山門)のみであり、旧国宝の本丸御門は、第二次大戦後は重要文化財に指定されている。また、曲輪・石垣などもよく残り、旧城地一帯が国の史跡に指定されている。