本庄宗資
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本庄 宗資 (ほんじょう むねすけ、寛永6年(1629年)頃 - 元禄12年8月16日(1699年9月9日))は、江戸時代前期の譜代大名。下野国足利藩主、のち常陸国笠間藩主。5万石。はじめは公家の家臣だったが、徳川綱吉の生母桂昌院の弟にあたるため、桂昌院の庇護を受けて大名に立身した。通称は平四郎(へいしろう)・次郎左衛門(じろうざえもん)。官位は従四位下侍従・因幡守(いなばのかみ)。
摂関家の一つ二条家家臣の本庄太郎兵衛宗正の次男として京都に誕生。母は鍋田氏の娘。徳川綱吉の生母である桂昌院は異父姉である。明暦2年(1656年)12月に姉桂昌院の子である館林藩主徳川綱吉に仕えるようになり、館林藩奏者番などをつとめた。寛文8年(1668年)にはじめて将軍徳川家綱にお目見えし、延宝8年(1680年)徳川綱吉が将軍となると、本庄も綱吉嫡男の徳川徳松に従う形で江戸城へ移り、切米800俵の幕府御家人に列した。この御家人と言うのは寛政重修諸家譜にある記述だが、甥と叔父の関係にある綱吉と本庄がお目見えできない関係とは考えにくい。旗本の間違いではなかろうか。いずれにしてもこれ以降、将軍綱吉とその生母桂昌院は、親戚の宗資を引き立てようと加増が繰り返される。天和元年(1681年)3月5日には1200石加増があり(この際に先の切米も所領に改められる)、常陸国真壁郡と河内郡のうちにおいて都合2000石。天和3年11月2日にさらに真壁に3000石加増。貞享元年(1684年)12月25日には従五位下因幡守に叙任している。元禄元年(1688年)にさらに下野国足利郡5000石を加増されて都合1万石となり、先の真壁の領地もすべて足利に移されて、下野国足利藩を立藩した。元禄2年(1689年)4月22日には姉の桂昌院が本庄邸に入り、11月にまた一万石の加増を受けた。元禄3年(1690年)12月25日には従四位下に昇進。元禄5年(1692年)11月11日には徳川綱吉と桂昌院が本庄邸に“将軍お成り”し、この際に2万石加増で領地を常陸に移されて笠間藩主4万石となった。元禄7年(1694年)4月の“将軍お成り”の際にもさらに1万石加増と侍従の官職を受けた。元禄12年(1699年)8月16日に死去した。享年71。浅草の安養寺に葬られた。室は二条家家司の隠河内守俊実の娘。家督は子の本庄資俊が継ぎ、この資俊の代に松平姓が与えられた。
娘が高家旗本の六角広治に嫁いでいる。