木版印刷
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木版印刷(もくはんいんさつ)は印刷技法の一つで、木の板に文章や絵を彫って版を作る凸版印刷である。
板目材に彫刻を行う板目木版と、堅木の木口面に細密な彫刻を行う木口木版(西洋木版)に大別されるが、単に木版と言った場合には板目木版を指すのが一般的である。単色の木版印刷は整版とも呼ばれる。
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[編集] 歴史
木版印刷は、多くの史家によって最古の印刷と看做されている。年代の確定する最古の印刷物として法隆寺に残っていた百万塔陀羅尼(770年)が知られていたが、1966年、韓国慶州は仏国寺にて発見された『無垢浄光大陀羅尼経』が8世紀前半のものと認められ、法隆寺のものより古い時代のものが発見された[1]。木版印刷の初期は仏典の印行が主であった。現在確認されている最古の印刷書『金剛経』は868年のものである。
木活字が開発されるなどしたが、印刷の主流は木版印刷であった。その地位は17世紀からの西欧諸国の東アジア進出から、グーテンベルクに淵源する鋳造活字が市場を覇すまで続いた。
日本では、百万塔陀羅尼以降印行の記録がないが、平安時代の春日版などの寺院版が印刷、ひいては木版印刷の主流であった[2]。桃山末期から江戸時代初期にかけて、一時古活字版やキリシタン版などの活版印刷が盛んになるが、寛永期を境に、再び木版印刷(整版)が主流となってくる。書店が発達し、浮世草子や黄表紙などのベストセラーが生まれ、一般に広く書物が普及するようになった。
活字を用いる活版印刷が普及しなかった理由としては、文字数が多いため多くの活字を揃えておくことが困難だったこと、それよりも職人が作る木版の方が自由度も高く効率的であること、漢字とかなを複雑に交え崩し文字で書いた文章が好まれたことにあると思われる。
明治初期が木版印刷から活版印刷への移行期である。『学問のすゝめ』や『西国立志篇』など当時のベストセラーも木版印刷・和装の本であった。1877年(明治10年)、秀英舎(のちの大日本印刷)が刊行した『改正西国立志篇』が活版印刷・洋装本を広めるきっかけになったようである。
[編集] 註
[編集] 参考文献
- T・F・カーター著、L・C・グドリッチ改訂『中国の印刷術 その発明と西伝』1、藪内清・石橋正子訳註、平凡社《東洋文庫》、1977年9月。
- 藤井隆『日本古典書誌学総説』和泉書院、1991年4月。