月岡芳年
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月岡 芳年(つきおか よしとし)、天保10年3月17日(1839年4月30日) - 明治25年(1892年)6月9日)は幕末から明治前期にかけての浮世絵師。本名は米次郎。一魁斎芳年、のちに大蘇芳年(たいそよしとし)と号した。歴史絵や美人画、役者絵などの浮世絵を主に手がける。特に無惨絵で知られる。「狂画家」「血まみれ芳年」などと呼ばれていたが、近年その評価に疑問視する声が上がってきている。 また当時、没落していく浮世絵師の中で成功したこともあり「最後の浮世絵師」と評価されることもある。河鍋暁斎とは、ともに歌川国芳に師事した兄弟弟子。
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[編集] 生涯
天保10年(1839)、江戸新橋南大阪町(武州豊島郡大久保の説有り)の商家である吉岡兵部の次男、米次郎として生まれる。のちに、京都の画家の家である月岡家の養子となる(自称の説有り、他に父のいとこ薬種京屋織三郎の養子となったのち、初めに松月という四條派の絵師についていたが、これでは売れないと見限り歌川国芳に入門したという話もある)。
嘉永3年(1850年1849説あり)十二歳で歌川国芳に入門。
嘉永6年(1853年)、十五歳のときに『画本実語教童子教余師』に吉岡芳年の名で最初の挿絵を書く。同年錦絵初作品「文治元年平家一門海中落入図」を一魁斎芳年の号でを発表。
慶応元年(1865)に祖父の弟である月岡雪斎の画姓を継承した。
慶応2年(1866年)12月から慶応3年(1867年)6月にかけて、兄弟子の落合芳幾と競作で『英名二十八衆句』を表す。これは歌舞伎の残酷シーンを集めたもので、芳年は28枚のうち半分の14枚を描く。明治元年『魁題百撰相』を描く。これは彰義隊と官軍の実際の戦いを弟子の年景とともに取材した作品である。続いて明治2年頃までに『東錦浮世稿談』などを発表する。
明治3年ごろから神経衰弱に陥り、極めて作品数が少なくなる。
明治5年、自信作であった『一魁随筆』のシリーズがかんばしくなく、ショックを受け、そして強度の精神衰弱に陥る。翌年には立ち直り、新しい蘇りを意図して号を「大蘇」に変える。
明治7年、6枚つながりの錦絵『桜田門外於井伊大老襲撃』を発表。明治8年「郵便報知新聞錦絵」を開始。これは当時の事件を錦絵に仕立てたもの。
明治10年に西南戦争が勃発し西南戦争の錦絵が盛んになる。実際に取材に行ったわけではないが、想像で西南戦争などを描いた。
明治11年には天皇の侍女を描いた『美立七曜星』が問題になる。
明治12年(1879)宮永町に移転し、手伝いに来ていた坂巻婦人の娘、坂巻泰と出会う。
明治15年絵入自由新聞に月給百円の高給で入社するが、
明治17年自由灯に挿絵を描き絵入自由新聞と問題になる。また読売新聞にも挿絵を描く。
明治16年『根津花やしき大松楼』に描かれている幻太夫との関係も生じるが別れ、明治17年(1884)坂巻泰と正式に結婚する。
明治18年、代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』などによって、「東京流行細見記」(絵師の人気番付)で一番になる。
その後、『大日本名将鑑』『大日本史略図会』『新柳二十四時』『風俗三十二相』、『月百姿』『新撰東錦絵』などを出し、浮世絵色の脱した作品を作るが、それに危機を覚えてか、本画家としても活躍しだす。また、弟子たちを他の画家に送り込んでさまざまな分野で活躍させた。
明治24年(1891)『新形三十六怪撰』の完成間近の頃から体が酒のために蝕まれていき、再度神経を病み目を悪くし、脚気も患う。また、現金を盗まれるなど不運が続く。
明治25年(1892)新富座の絵看板を年英を助手にして製作するものの、病状が悪化し、巣鴨病院に入院。病床でも絵筆を取った芳年は松川の病院に転じるが、5月21日に医師に見放され退院。6月9日、本所藤代町の仮寓で脳充血のために死亡。 しかし、やまと新聞では6月10日の記事に「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある。
明治31年(1898)には芳年の墓は東大久保の専福寺にある。向島百花園内に岡倉天心を中心とする人々によって記念碑が建てられた。
[編集] 画風・画題
江戸川乱歩・三島由紀夫などの偏愛のために「芳年といえば無惨絵」と思われがちだが、その画業は幅広く、歴史絵・美人画・風俗画・古典画に渡る。近年はこれら無惨絵以外の分野でも再評価されてきている。師匠歌川国芳譲りの武者絵が特に秀逸である。
もともと四條派の画家に弟子入りしたためか(本人談)四條派の影響を強く受けた肉筆画も手がけている。
彼自身、浮世絵だけを学ぶことをよしとしなかったため、様々な画風を学んでいる。写生を重要視している。
芳年の絵には師の国芳から受け継いだ華麗な色遣い、自在な技法が見える。しかし師匠以上に構図や技法の点で工夫が見られる。動きの瞬間をストップモーションのように止めて見せる技法は、現代のマンガや劇画に通じるものがあり、劇画の先駆者との評もある。
彼の作品は海外でのほうが評価が高いのもこのためであろう。特に『魯智深爛酔打壊五台金剛神之図』の作品のような均整の取れた東洋人離れした肉体は西洋の彫刻のようである。
[編集] 歴史絵・武者絵
芳年には歴史絵の傑作がある。「大日本史略図会」中の日本武尊、明治16年の「藤原保昌月下弄笛図」など。明治という時代のせいか、彼の描く歴史上の人物は型どおりに納まらず、近代の自意識を感じさせる。
[編集] 美人画・風俗画
美人画・風俗画も手がけており、『風俗三十二相』でみずみずしい女性達を描いた。
[編集] 無惨絵
初期の作品「英名二十八衆句」(落合芳幾との共同作品)では血の表現に、染料に膠を混ぜて光らすなどの工夫をしている。この作品は勇斎国芳の『鏗鏘手練鍛の名刃(さえたてのうちきたえのわざもの)』に触発されて作られた。これは芝居小屋の中の血みどろを参考にしている。 当時はこのような見世物が流行っていた。 幕末の動乱期には斬首された生首を、慶応4年の戊辰戦争では戦場の屍を弟子を連れて写生している。
明治18年に描かれた彼の代表作に「奥州安達が原ひとつ家の図」がある。芳年は写生を大切にしていたが、この絵は芳年の想像力を駆使して描かれたものだ。
責め絵(主に女性を縛った絵)で有名な伊藤晴雨がこの絵を見、芳年が本当に妊婦を吊るしたか気になり、奥さんの勧めで妊娠中の妻を吊るして実験した。その結果、おかしな点があったため、写生はしていないということが判明した。その後、芳年の弟子にこのことを話すと、弟子は師匠がその写真を見たら大変喜ぶだろうと答えたそうだ。
[編集] その他の画題
月に対しては名前のせいもあって思い入れがあるようで、月の出てくる作品が多く「月百姿」という百枚にもおよぶ連作も手がけている。これは芳年晩年の傑作であり、古典的な浮世絵のスタイルから洗練された画風、大胆な構図が現在でも見るものに古さを感じさせない。
[編集] 人柄
芳年は弟子に厳しいが同時に大変かわいがり、これからは洋画の時代だと見越し、何人もの弟子を洋画家に弟子入りさせている。そのため彼の弟子に大成した人は少なくない。
涙もろい人情家でもあり、円朝の人情話を聞いてすすり泣いたという話もある。目は大きいが怖くない人だ、と子ども(鏑木清方)には思われていた。
絵のモデルのために弟子を縛り付けて、それを見た知人が驚いて、助けてやってくれと頼むと、「こいつは悪いことをしたので縛り付けている」と悪乗りをして言い返すユーモラスな人でもあったようだ。
さらににぎやかなお祭り好きで、話し上手でもあった。
一般的には神経衰弱にかかっていたため病んでいるようなイメージがある。それでも病の床で絵を描き続けた。絵の道にひたむきな姿勢を持っていたことがうかがえよう。
[編集] 影響
芳年の門人には水野年片、稲野年恒、右田年英、山田年忠、新井芳宗などがおり、水野年片の門人に鏑木清方、池田輝方などその他多数いる。特に鏑木清方は子どもの頃から芳年の家に遊びに来ていた。 彼らは挿絵画家や日本画家として活躍した。
また芥川龍之介、谷崎潤一郎、三島由紀夫、江戸川乱歩などの文士たちに愛された。
芸術家では横尾忠則が芳年の影響を受け画集を発売している。
[編集] 参考図書
- 芳年妖怪百景 / 〔月岡芳年〕[他]. -- 国書刊行会, 2001.7
- 月岡芳年の世界 / 悳俊彦. -- 東京書籍, 1993.1
- 芳年-狂懐の神々 / 横尾忠則,中山豊彦. -- 里文出版, 1990.4
- 月岡芳年画集 / 瀬木慎一. -- 講談社, 1978.3
- 血の晩餐 / 大蘇芳年. -- 番町書房, 1971