普遍論争
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普遍論争(ふへんろんそう)とは、スコラ哲学において「普遍は存在するか」という問いをめぐって争われた哲学上・神学上の論争の一つである。これと内容的に同じ議論が、古代から続いており、近代哲学や現代の哲学でも形を変えているか問題となっている。「普遍概念」をめぐる論争として、中世の論争を特にこの名で呼ぶ。
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[編集] 概説
[編集] 普遍概念
普遍とは個物(レース)に対する普遍のことで、もう少し詳しく表現すると、「類の概念」あるいは「普遍概念」のことである。個物とは中世において自明的に存在すると考えられた個別的な事物のことで、例えば、フィレンツェに住む商人のミケーレ氏とか、そのミケーレ氏の邸で飼っている犬のフェリスとか、ミケーレ氏の邸内に生えている柏の大樹などである。
ミケーレ氏は、「人間の類」に属し、犬のフェリスは「犬の類」に属し、柏の巨木は「柏の樹の類」に属している。これらの「類の概念」は形相(フォルマ)であると中世哲学では考えられた。そこで、これらの類の概念、つまり「人間の形相」「犬の形相」「柏の樹の形相」などが、「普遍概念」とも呼ばれた。
個物が存在することは疑いがないが、では類の概念、つまり普遍概念は存在するのかどうか。具体的なミケーレ氏という人間とは別に「人間の普遍概念」が存在するのか、同様に、犬のフェリスとは別に「犬の普遍概念」が存在するのか、また「柏の樹の普遍概念」が存在するのか。この問題は、古代においても、事物のイデアー存在と、個別存在の違いということで問題になっていたが、スコラ哲学では、更に精緻に議論や考察が行われた。
[編集] 実在論と唯名論
トマス・アクィナスは普遍概念は存在するとし、何ものかが明らかでない個物の基体存在物に、例えば「人間」の形相が付与されることで、すなわち「人間の普遍概念」が基体存在に加わることで、簡単に云えば、「人間の具体的存在」すなわち「個物としての人間」が成立するとした。このように、類の概念、すなわち普遍概念が実在するとする考えを、実念論または実在論と呼ぶ。
これに対し、オッカムのウィリアムなどは、人間の類の概念、すなわち「人間の普遍概念」は形相的に実在するのではなく、古代のアリストテレスが考えたように、実在するのは具体的な個々の個物であるとした。つまり、人間のミケーレや犬のフェリスや柏の巨木が、個物(レース)として実在しているのである。このとき、「普遍概念」は、類を示す「名前(nomen)」であり、名前は「言葉」として存在するが、類の概念、すなわち普遍概念としての形相的存在は実在しないとした。この考えを唯名論と云う。
[編集] 著名な論客
実在論者には、神の存在証明で名を知られるアンセルムスやトマス・アクィナスがおり(両名ともカトリックの聖人である)、他方、唯名論者には、自由恋愛のアベラールや経験論哲学の先駆であるオッカムのウィリアムがいる(これらの人たちは、教皇庁と対立関係にもあった)。
[編集] 関連項目
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