神の存在証明
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神の存在証明 (かみのそんざいしょうめい,英語:Arguments for the Existence of God) とは、主として、中世哲学における理性による、神の存在の根拠の提示を意味する。神の存在は、諸事物の存在が自明であると同様に、自明であったが、トマス・アクィナスが『神学大全』において取った立場が示すように、神は、自然なる理性においても、その存在や超越的属性が論証可能な存在である。このように神の存在を、理性(推論)によって導出する手順が、「神の存在証明」と呼ばれる。神の存在証明は、古代から中世にかけての哲学的思索のなかで、代表的には三つのものが知られ、これに、三つの神の存在証明をすべて論駁し否定したイマニュエル・カントが、彼自身の哲学の帰結として要請した「神の存在」の根拠が加わって、四種類が存在する。
また、この四種類の存在証明は、いわば典型的な論証形式のパターン区別に当たり、他の様々な個別的な思想家による、神の存在証明の試みがあった。
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[編集] 四種類の存在証明
四種類の存在証明は、通常、次のように呼ばれる。
- 目的論的証明
- 本体論的証明
- 宇宙論的証明
- 道徳論的証明
[編集] 目的論的証明
世界の事物は、自明的に存在し、それらはきわめて精妙かつ、壮大な秩序と組織原理を持っている。太陽や星の運行を見れば、その規則性には驚くべきものがある。あるいは、植物の花や葉や枝などを見ると、信じ難い精巧さで造られている。動物の身体などは、更に精巧で見事であり、人間となると、もっと精巧である。しかも自然世界は、草を食べる牛がいれば、牛を食べる狼や人間が存在し、空から降る雨は、適切な季節に大地を潤し、植物の生長を促し、その実の熟成を、太陽の光が促す。
このような精巧な世界と自然の仕組みは、調べれば調べるほど、精巧かつ精妙で、人間の思考力や技術を遥かに越えている。世界に、このような精巧な仕組みや、因果が存在するのは、「人知を超越した者」の設計が前提になければ、説明がつかない。すなわち、自然の世界は、その高度な目的的な仕組みと存在のありようで、まさに神の存在を自明的に証明している。
[編集] 本体論的証明
アンセルムスが、このような形の神の存在証明を試みたので有名である。しかし、この証明は中世哲学において、極めて一般な証明議論であった。
この証明は、カントが論破したことで有名であるが、「存在する」という事態を、「属性」として捉え、例えば、次のような論理を述べる。「存在するという属性を、最大に備える存在者が存在する。何故なら、存在するという属性は、他の存在者もすべて備えているが、そのような属性を「最大に持つ者」は、まさに、自明的に存在するからである」
このような「最大の存在属性を持つ者」こそは、神である。それ故に、神は存在する。
[編集] 宇宙論的証明
中世哲学で、「宇宙論的証明」と呼ばれる神の存在証明の論証手順は、古典ギリシアのアリストテレスに遡る。事物や出来事には、すべて「原因」と「結果」があると考えたのはアリストテレスである。従って、神の宇宙論的証明は、アリストテレスがすでに行っていた。
中世スコラ哲学は、13世紀の「アリストテレス・ルネッサンス」の言葉で知られるように、アラビア・スコラ哲学を介して、古代ギリシアの哲学者、とりわけアリストテレスの思想を取り入れたところで成立したとも言える。トマス・アクィナスは、アリストテレスの根本の原因者の概念を、キリスト教の神に当て嵌めて、この証明を行った。
すべての事物や出来事には、必ず原因があり結果がある。これは原因とか結果の概念は何かを考えれば、必然的に妥当な命題である。ところで、宇宙には、運動している物体がある。物体が運動するには、何か原因がなければならない。原因となった出来事が存在して、はじめてこの宇宙での物体の運動という出来事は説明される。そこで、原因となった出来事を考えると、この出来事にもまた原因がなければならない。こうして考えると、出来事の「原因」の序列は、より根本的な原因へと遡行して行くことになる。しかし、この過程は「無限」ではないはずである。宇宙には「始まり」があったのであれば、原因が無限に遡行するというのはおかしい。それ故、一切の運動には、原初の根源原因があるはずであり、出来事の因果は、この根源原因よりも先には遡らない。これこそ「神」であり、宇宙に運動があり、出来事があるということは、その根源原因である「神の存在」を自明的に証明している。
この証明に対し、出来事の原因と結果は、必ずしも一対一ではないという考えがある。原因は一つとは限らないし、結果も一つとは限らない。しかし、原因が仮に非常に多数あったとしても、それらの多数の原因となる出来事の原因を尋ねて行けば、やはり、根源の宇宙の初原の原因に辿り着かざるを得ない。この初原の原因が、すなわち神である。
あるいは、神の世界創造を否定して、宇宙の時間は無限にあるなどという議論も可能かも知れない。原因は無限に遡行して、根源の原因には辿り着かないという可能性である。しかし、我々の世界はそもそも「有限の世界」であり、宇宙が無限だというのなら、そのような宇宙は、この世界に対し超越的であり、超自然である。もし無限の宇宙があるなら、それこそ神の存在の明証である。このような論証を、「神の宇宙論的証明」と言う。
[編集] 道徳論的証明
(以下、続く)
[編集] 様々な存在証明の試み
四種類の存在証明は、基本的なパターン分類であり、一人の思想家・哲学者の神の存在論証において、これらのパターンの一部が使用されたり、また複合形で論証が行われたりする例もある。
近世以降にも神の存在論証はあるが、それぞれの思想家で、何を強調するかのバリエーションであるとも言える。「神の不在証明」の問題と共に、人間の思想の歴史を通じて、世界の根源、存在の根拠、人間の存在意味などを問いかけるとき、神の存在と不在の議論がそこには恒に伏在しているとも言える。
例えば、スピノザは神とは「自然」であるとしたが、自然の存在は自明であり、そうとすれば神の存在も自明となる。しかし、このような形の議論は存在証明というより、存在の独断であるとも言える。対し、精神(思惟実体)と物質(延長実体)の二実体論を提示したデカルトの思想では、精神と物体が調和している根拠が不明であり、しかし、にも関わらず、現に精神と物体の調和性が存在することは、両者の仲介者としての「神の存在」が、ここから導かれるとも言える。
あるいはスピノザの場合でも、彼の語る自然は、必然法則を備え、更にその法則は倫理的法則でもあって、物体世界と精神世界が一元論的に統合され、かつ、このような一元実体が倫理的な必然法則を備えるとというのであるから、このような意味では、スピノザの思想そのものが、神の存在証明になっているとも言える。
[編集] ニュートンによる神の存在論証
以下の逸話で語られているニュートンの神の存在論証も、ニュートン力学の構成によって彼が辿り着いた、「神の目的論的証明」のバリエーションだとも言える。宇宙の物体の運動に、想像を絶して精緻な数学的秩序を見出したニュートンが、このような法則構造は、人間の能力を超えた「超越者」の「設計」によると考えるのは、現代の数学者が、抽象数学の定理に、永遠的な美や形而上学的意味を感得するのと似た事態である。
- ニュートンの逸話:
- ニュートンは太陽系の模型を上手な機械工に作らせた。その太陽系模型は、惑星を表わす球体が実物そっくりに連動しながら軌道上を回るように作られていた。
- ある日、一人の無神論者の友人がニュートンを訪ねた。友人は模型を見るとすぐにそれを操作し,その動きの見事さに感嘆の声を上げた、「だれが作ったのかね?」。
- ニュートンは答えた。「だれが作ったのでもないさ!」
- 無神論者は言い返した。「君はきっと、わたしのことを愚か者だと考えているのだろう。勿論、だれかが作ったのに違いないが、その人は天才だな。」
- ニュートンはその友人に言った。「これは、君もその法則を知っている、はるかに壮大な体系のごく単純な模型に過ぎないものだ。わたしはこの単なる玩具が設計者や製作者なしに存在することを君に納得させることができない。それなのに、君は、この模型の原型である偉大な体系が設計者も製作者もなしに存在するようになったと信じている、と言うのだ!」
- その友人は神の存在を認めるようになった。
[編集] 現代における存在証明
20世紀のカトリック思想家で、考古学者であったテイヤール・ド・シャルダンの人間精神の進化思想と、その究極目標としての「オメガ点」の措定は、生物進化の多様さと精緻さ、その「目的性」という観点からは、「目的論的証明」の一種であるとも言える。またオメガが、人間の倫理性から進化するとの考えからは、「道徳論的証明」の一種とも考えられる。
また、20世紀後半以降、「人間原理」の概念が提唱されている。これには「弱い人間原理」と「強い人間原理」があるが、とりわけ強い人間原理の思想的背景は、人間の現象の意味の根拠として、「神の存在」を論証していると解釈することも可能である。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- イマニュエル・カント 『純粋理性批判』 岩波書店
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