春屋妙葩
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春屋妙葩(しゅんのくみょうは、応長元年(1311年) - 元中5年/嘉慶2年10月2日(1388年11月9日))は、室町時代の臨済宗の禅僧である。室町幕府の帰依を得て天龍寺や臨川寺の住職となる。知覚普明国師。
甲斐国(山梨県)の生まれ。母方の叔父である夢窓疎石のもとで受戒する天竜寺の住職となり、幕府に対して五山第一の南禅寺の楼門(山門)新築を提言し、幕府は楼門建設の援助をしていた。楼門建設には南禅寺と紛争状態であった園城寺が抗議し、比叡山の門徒もこれに加わり楼門撤去や妙葩の配流を求め、紛争は政治問題にまで発展する。1369年(応安2/長慶24)に管領の細川頼之は楼門を撤去させる。妙葩は頼之と対立して天龍寺住職を辞して勝光院、さらに丹後国の雲門寺にへ隠棲する。頼之は妙葩との和解のために会談を求めるが妙葩は拒絶し、頼之は門徒の僧籍剥奪を行う。1379年(康暦1/天授5)の康暦の政変で頼之が失脚した後に入京し、南禅寺住職として復帰する。妙葩は頼之が失脚する直前に丹後を出立しており、政変への関与も考えられている。3代将軍足利義満の帰依を受け、初代の僧録となる。
相国寺を開き、臨済宗五山派を興す。五山版の刊行なども行う。また多くの弟子を育て、彼らは日明貿易を行う最に幕府の外交顧問となった。
『春屋妙葩頂相』 吉山明兆筆 光源院所蔵