斎藤弥九郎
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斎藤 弥九郎(さいとう やくろう、1798年(寛政10年) - 1871年11月14日(明治4年10月2日))は、幕末期の神道無念流剣術の剣術家。名は善道(よしみち)。号は篤信斎。なお正しい表記は、齋藤 彌九郎、篤信齋、漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により現表記になる。
弥九郎の門下生の多くは、幕末期の原動力となった人々であった。弥九郎は、剣術の技量こそ練兵館の食客であった岡田吉貞(2代目・岡田十松)に及ばなかったが、いわば次代の人材を育て上げた稀代の貢献者とも言える。
[編集] 年譜
- 1798年(寛政10年)、越中国氷見郡仏生寺村の郷士・斎藤新助(信道)の長男として生まれた。斎藤家は加賀国守護冨樫氏の末裔と伝えられる。
- 1812年、江戸に出て神道無念流剣術の達人・岡田吉利(初代・岡田十松)に入門した。同門に、江川英龍や藤田東湖らがいる。弥九郎は師匠の十松が驚くほどみるみるうちに剣の腕を成長させ、師範代となる。師匠の没後にはその遺言により道場を継ぐこととなった。
- 1826年に江川英龍から資金援助を受けて独立し、江戸に練兵館を開いた。この頃、すでに弥九郎の剣の腕は天下無双と称され、その道場である練兵館は千葉周作の玄武館や桃井春蔵の士学館と並んで江戸三大道場の一つに数えられた。
- 1835年、江川英龍が伊豆国韮山の代官となると、かつて独立するのを助けてくれた経緯から品川台場の建築など、江川の代官としての仕事を助けている。その後、渡辺崋山と親交を持ったために尊皇攘夷運動家の一人となるが、過激な尊皇攘夷には反対した。
道場を九段坂下の神田俎(まないた)橋のほとりから現在の靖国神社の敷地内に引っ越した頃、長州藩の藩士数十名がこの新道場の道場破りに押しかけてきたことがあったが、弥九郎の三男斎藤歓道が一人で全員を打ち倒してしまった。このため、長州藩は弥九郎の道場のレベルの高さに驚愕すると同時に敬意を示し、藩士の多くを練兵館に送って学ばせた。その門下生として、桂小五郎(のちの木戸孝允)・高杉晋作・品川弥二郎・井上馨・伊藤俊輔(のちの伊藤博文)たちがいる。桂小五郎の次の塾頭には、美作津山藩士井汲唯一、肥前大村藩士渡辺昇、長州藩士太田市之進たちがいる。
- 1858年、剣術修業の全国行脚を達成していた長男斎藤龍善に二代目「斎藤弥九郎」を継がせる。
- 1868年、彰義隊から首領になってくれるように望まれたが、これを拒絶する。同年明治政府に出仕し大阪会計官判事試補となり、さらに造幣寮の権判事に進む。
- 1871年、大阪の造幣寮が火事になった折、猛火の中に飛び込み重要書類を運び出すことに成功するが、その時の火傷が元で東京に戻った。
- 1871年11月14日(明治4年10月2日)、死去。享年74。