撫川城
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撫川城 | |
通称 |
沼城 |
城郭構造 |
平城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
三村家親 |
築城年 |
永禄2年 |
主な改修者 |
戸川達冨 |
主な城主 |
井上有景、戸川達冨 |
廃城年 |
1869年(明治2) |
遺構 |
石垣、堀、知行所総門 |
撫川城(なつかわじょう)は、岡山県岡山市にある城。沼城(ぬまじょう)とも称される。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 戦国時代
永禄2年(1559年) 備中国の三村家親が備前国の宇喜多直家に備える為に築かせたと伝えられている。
天正3年(1575年) 三村氏が、毛利氏に滅ぼされてからは毛利氏の出城となり、配下の井上有景が、この城を守備するようになる。
天正10年(1582年) 羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際に、毛利方の国境防備の城「境目七城(冠山城、高松城 (備中国)、宮地山城、鴨城、日幡城、松島城、撫川城)」の一つとなり、城主の井上有景が800余人を率い守備する。この際、位置的に孤立した場所にあったため、吉川元春、小早川隆景に早々に撤退するように下命されていたが、有景はその命令に背き、羽柴軍との間で激戦が交わされました。その際に、井上有景の軍勢は羽柴軍に敗れ かの地は宇喜多氏の領有となり しばらくの間、当城は廃城となる。
[編集] 江戸時代
延宝7年(1679年) 庭瀬藩4代藩主 戸川安風が、早世した事により 弟の戸川達冨が名跡を継ぎ、5,000石を知行する。陣屋は撫川城を中心にした場所に設けた。
[編集] 現代
現在、庭瀬城と撫川城との位置関係は僅かに数百メートルしか離れておらず、戦国時代は一つの城であったと思われる。
現在の撫川城は東西77m、南北57m、幅15mの濠と野面積の石垣からなり、西半分には高さ4mの高石垣、東半分には土塁が現存しています。また、北西端には櫓台と思われる石垣の張出しも見ることが出来、現存する城としては珍しいものであります。また、入口にある門は撫川知行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝えられている。
昭和32年 岡山県指定史跡(第1号)指定される。
現在の敷地内北側には三神社が鎮座し、撫川城址公園として周辺住民の憩いの場所となっている。
[編集] 近隣施設
[編集] アクセス
[編集] 関連項目
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