徳川茂承
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徳川 茂承(とくがわ もちつぐ、1844年3月1日(天保15年1月13日) - 1906年(明治39年)8月20日)は、江戸時代末期の大名。紀伊国紀州藩第14代(最後)の藩主。父は伊予国西条藩主・松平頼学(茂承は七男)。
初名は頼久。1844年、紀州藩の支藩である西条藩主・松平頼学の七男として江戸藩邸にて生まれた。1858年に第13代藩主・徳川家茂(当時は慶福)が第14代将軍に就任すると、幕命によりその後を受けて紀州徳川家の家督を継ぎ、紀州藩の第14代藩主に就任した。このとき、名を頼久から、家茂の「茂」を賜って茂承と改名している。
1868年、戊辰戦争が起こったとき、茂承は病に倒れていた。しかし徳川御三家の一つであるうえ、鳥羽・伏見の戦いで敗走した幕府将兵の多くが藩内に逃げ込んだため、新政府の討伐を受けかけたのである。しかし、茂承は病を押して釈明し、新政府に叛く意志はないということを証明するため、藩の軍勢を新政府軍に提供すると共に、15万両もの献上金を差し出したうえ、京都警備の一翼までもを担ったのである。このため、新政府は紀州藩の討伐を取りやめたという。
1869年の版籍奉還によって和歌山藩知事となり、1871年の廃藩置県で東京に移住する。その後、明治政府の新政策によって窮乏しつつある士族を見て、「武士たる者は、政府の援助など当てにしてはならない。自らの力で自立するものだ」と、徳義社を設立して、窮乏する士族の援助育成に努めた。
[編集] 経歴
- 1844年(天保15)1月13日、誕生。幼名:孝吉(伊予国西条藩主松平頼学の七男)
- 1846年(弘化3)6月24日、幼名を賢吉と改める。
- 1858年(安政5)、紀伊国紀州徳川家の家督を相続し、紀州藩主となる。
- 1859年(安政6)10月13日、元服し、将軍徳川家茂の諱を一字賜り、茂承と名乗る。従三位に叙し、参議左近衛権中将に任官。 12月1日、権中納言に転任。 12月6日、伏見宮邦家親王の娘倫宮(みちのみや)則子女王(1850年旧暦4月5日~1874年11月14日)と納采。 12月21日、婚姻。
- 1864年(元治元)、正三位に昇叙。権中納言如元。 8月6日、幕府第一次長州征伐軍の総督となる。 8月8日、尾張藩主徳川慶勝と総督を交替。
- 1865年(慶応元)5、第二次長州征伐軍の御先手総督となる。
- 1869年(明治2)6月17日、和歌山藩知事となる。
- 1871年(明治4)7月14日、藩知事辞職。
- 1877年(明治10)、従二位に昇叙。
- 1884年(明治17)7月7日、侯爵を授爵。
- 1906年(明治39)8月20日、薨去。従一位勲三等に叙勲。享年63歳。法名:慈承院殿剛健日純大居士