後藤信康
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後藤 信康(ごとう のぶやす)は、戦国時代の武将。伊達氏の家臣。
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期 | |||
生誕 | 不詳 | |||
死没 | 不詳 | |||
別名 | 孫兵衛。四郎兵衛(通称) | |||
主君 | 伊達政宗 | |||
官位 | 肥前守 | |||
氏族 | 湯目氏→後藤氏 | |||
父母 | 父:湯目重広。 養父:後藤信家 |
湯目重広の次男として生まれるが、後藤信家の養子となって後藤氏の家督を継いだ。智勇に優れた武将だったため、主君の政宗から厚い信任を受け、天正13年(1585年)に檜原城主に任じられ、蘆名氏との戦いで功績を挙げた。
天正19年(1591年)、政宗より亘理郡坂本城主に任命される。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においては、政宗に従って渡海し、武功を挙げた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも上杉景勝軍と戦って武功を挙げている。しかしこれほどの武将にも関わらず、その後の行方も没年も不明である。
[編集] 逸話
- 伊達家臣団の中では智勇に優れた名将として知られた。また、黄色の母衣を着けて常に戦場に赴いたため、「黄後藤」と称されて恐れられたという。
- 檜原城主であったとき、政宗に対してあまりに退屈なので、城主を解任して戦場に赴かせてほしいとまで言ったとされている。