張耳
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張 耳(ちょう じ、生年不明 - 紀元前202年)は、秦末から前漢初期にかけての武将。 魏の大梁の人。青年時代に魏の公子の信陵君の食客になったことがある。 後に事情あって、外黄に移住した。現地の富豪の娘を娶り、妻の実家の援助で、魏に仕官し 外黄の県令となった。この頃に長男(名は不詳)や次男の張敖が誕生したらしい。 当時はゴロツキ時代の劉邦も張耳を慕って、その食客になったことがあるという。 この頃に同郷の陳余と知り合い、陳余がやや若いために義兄弟の契りを結び、かつての藺相如と廉頗を習ってお互いに首を斬られても良いという「刎頸の友」となった。陳余はしばしば趙の苦陘に遊学に行き、そこで兵法学を学び、現地の富豪の公乗氏の娘を娶った。
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[編集] 張耳と陳余の苦難時代
紀元前225年に魏が秦によって滅ぼされると、二人は名を変えて陳のある村の門番となった。既に張耳と陳余の名は世に知られており、自らも秦に狙われるためである。そこで村役人に陳余が因縁をつけられ袋叩きに遭うが、張耳が「陳余よ!わしらはこんなくだらんことで命を落とすべきではない!将来のために我慢すべきだ!」と慰めて支え合ったという。
紀元前209年に陳勝が蜂起すると、両人はその元へ直ちに馳せ参じた。陳勝は両人が名士ということで喜んで迎えた。その時、張耳は「張楚王(陳勝)、現在、趙は混乱中ですので、直ちに攻めるべきですぞ」と進言した。傍らで陳余も「わたしは若い頃、趙で兵法学を学んでおりましたので、兵法にも趙の地理にも詳しく、容易に落とすことが出来ましょう」と言った。陳勝も頷き旧友の武臣に訊いたところ「張耳・陳余どのの申される通りです。今は好機でありお二人の力も得ればより間違いありません」と言ったため、陳勝は武臣を総大将に張耳・陳余を副将に任命し、さらに監軍(戦目付)にこれも旧友の一人の邵騒を付け、趙討伐に発進させた。その途中で范陽(現在の北京)を攻略した時に、地元の儒者の蒯通が突如、武臣の陣営にやって来て「范陽の郡守は自分の旧知である。わたしに説得をお任せ願いたい」と言ったので、武臣らは蒯通に全てを委ね、説得が成功して趙の攻略が容易になり、その勢いのまま趙を制圧する。その際、張耳・陳余らが武臣に趙王即位を囁いた。こうして武臣は陳勝に奏上した。これを聞いた陳勝は激怒したが宰相の房君・蔡賜に宥められ、渋々と認めた。張耳は右丞相。邵騒は左丞相。陳余は上将軍となった。武臣が出世することで張耳・陳余も出世したのである。
だがこれが武臣の不幸の始まりであった。趙平定後、趙王・武臣は更に領地を広げるため配下の将軍を各地の攻略へ向かわせていたのだが、その内の元秦軍の李良将軍が任命された攻略が難しいため、兵の増員を趙王へ願おうと趙都邯鄲と戻っていた。その途中で武臣の姉の行列に出会い平伏した。だが、彼女に礼を失され激怒した李良とその部下達は武臣の姉ら一行を殺し、そのまま宮殿に乗り込み、武臣を初めとして左丞相の邵騒らを斬り殺した。だが張耳と陳余は優れた情報網もあり間一髪で脱出した。
そして賢人の勧めで信都を都とし、かつての趙の公子であった趙歇を王として擁立した。これを聞いた李良は信都を攻めたが、陳余に撃退され秦の章邯の下へ逃亡した。章邯は直ちに武将の王離を信都へ向かわせ、自分は邯鄲の住民を強制的に移住させ、これを破壊し瓦礫と化させた。邯鄲は要害であり、ここに篭られたらそれだけで攻略に数年は要するからである。王離来たるの情報を聞いた張耳は趙王と鉅鹿に行き篭城し、陳余は常山に行き兵を集めることにした。こうして両人は分かれた。
[編集] 張耳と陳余の亀裂
張耳は、若い頃から刎頚の仲と呼ばれた陳余と共に魏に仕え、魏滅亡後も力を合わせて苦難を乗り越えた。だがこの鉅鹿攻防戦を機に両人の仲に亀裂が生じることになる。
張耳は陳余の援軍を首を長くして待ち続けた。こうしているうちに章邯の本隊が来て総攻撃が始まった。そんな時に「陳余の援軍来たる」の報が来た。だが信都を包囲する秦の大軍を見、陳余は容易に手が出せないと様子を見た。これは陳余と共に援軍を出した次男の張敖も同様であった。攻めない援軍に痺れを切らした張耳は、自分の親族の張黶と陳余の親族の陳澤に、陳余の元へ催促の軍使として赴かせた。それでも陳余は動かなかった。張黶と陳澤の執拗さに根負けして陳余は兵五千人を与えたが、両人は秦軍へ突貫して戦死し軍勢は全滅した。これを見て余計に援軍は動かなくなった。その状態がしばらく続き、信都も飢え落城も最早日数の問題となった頃に項羽軍が来て秦軍を撃退した。
その後、陳余が鉅鹿に入城した際、憤激した張耳は「お前がこんな薄情なやつとは知らなかったぞ!」と叫んだ。だが陳余は「それは誤解だ。俺はあの時攻勢しても全滅するだけで、状況を見て攻撃する予定であった。それに趙王と張耳が死んでも趙は再興できる、敵討ちも出来る。全滅してはそれも果たせない」と言った。その言葉に癪に障った張耳は「お前の都合が悪いから、張黶と陳澤を殺したのだろう」と言い出した。陳余も激怒して「貴様はそこまで、親友のわしを疑うのか!」と言い返した。そして「わかった!!それならわしは辞任する!これで貴様の気も治まるだろう!」と言い放って将軍の印綬を押し付けると、便所に行ってしまった。驚いた張耳は最初印を返して仲直りしようとしたが、食客の諌めに従って自ら将軍を兼ねることにした。便所から帰った陳余はそれを見て激怒し、最早戻らず、そのまま夏悦ら数百人の部下と共に南皮に去り、漁師として生活した。だが張耳に対して憎悪の念を抱いたままだった。
その後、秦が滅んで楚漢の戦いに時代は動く。張耳はその時、漢中に置かれた招賢館に訪れた。そしてそこでかつての食客であった漢王・劉邦についた。そして、後年に趙を滅ぼす時に韓信に従って大いに功を立てた。何故、彼が以前に仕えていた趙を滅ぼしに行ったのか。それは少し時期を遡る事になる…
[編集] 何故、彼は以前に仕えていた趙を滅ぼすことになるのか
秦が滅びた時、その攻略に張耳も大いなる功績を立てたので、咸陽で項羽に評価され、項羽は張耳を趙全体を治める常山王に任じ、趙王歇は代王として左遷した。だが刎頚の仲の陳余は趙擁立の功績はあったが秦攻略の功績が無かったため、南皮付近の三県のみ封ぜられただけであった。
そこで陳余の張耳に対する怒りが一気に爆発した。「張耳と項羽は密通しているのではないか。だから趙王歇さまを代王に追いやり、自分が常山王となったのだ」また「わしもあれだけ功績を残したのに、南皮付近の三県だけとはあまりにも不公平」と憤慨する。やがて腹心の夏悦に「お前は斉の田栄に南皮を無条件で渡譲することで兵を借り受けよ。わしは代に赴き、趙歇さまを迎える」と言った。 項羽に対していた斉王田栄は、味方が欲しいこともあり快く兵を貸した。兵を得た陳余は挙兵し、部下の夏悦らと共に信都を攻めた。住み慣れた城であり弱点も良く知っていたため、容易に落城した。張耳は逃れたものの、その一族は皆殺しにされてしまう。これをきっかけに絆が深い親友であった陳余は張耳との関係が、相互に一族同士で憎しみ殺し合う仲になってしまう。
そして陳余は、代から歇を都の信都に迎え改めて趙王とすると、念のために「張耳は楚の項羽に密約し、趙を乗っ取ろうとしておりました」と讒言した。 趙王歇は激怒し、陳余に代王兼宰相にして張耳を滅ぼすことを全て任せた。陳余は腹心の夏悦を代に赴かせて、その長官に任じた。居場所がなくなった張耳一行は、初めは天下一の実力者でもあり自分を常山王にした項羽を頼ろうとしたが、近侍の占星術師が「漢王の劉邦のほうが先明があります。また張耳さまのかつて食客でもありましたから、彼は喜んで迎えてくれるでしょう」と勧められたため、漢中の劉邦の下へと落ち延び、劉邦に迎えられて漢に仕えることになった。
[編集] 恨みを晴らした張耳
漢に仕えてから張耳は、韓信の副将に付き数々の功績を立てた。項羽を包囲するために各国と同盟を結んだ漢王劉邦だったが、趙と同盟を結ぶには実力者の陳余の承諾が必要があった。同盟の申し出を聞いた陳余は「項羽と対することは問題ないが、張耳とは共に行動することはできないので、その首級を差し出し願いたい。それなら劉邦どのにご協力しましょう」と張耳の首と引き替えに同盟を承諾することを条件としたため、劉邦は頭を抱えた。しかし家臣の助言で、張耳に似た囚人を処刑し、その首を届けた。その首を見た陳余は納得し、漢と趙は同盟することとなった。 だが、紀元前205年に項羽により連合軍が大敗した際、逃亡する張耳を趙兵に見られ偽首の件が露見し、怒った陳余により同盟は破棄された。
そして劉邦は韓信の進言により、同盟を破棄した諸国を一国ずつ攻めることを決める。 韓信がその攻略軍を率い、張耳はその副将として従ってその攻略を順調ならしめた。 そして漢軍が趙都に迫るに至り、趙の主力軍を率いた陳余が対峙する。漢軍三万に対し趙軍二十万。世に言う井陘の戦いである。 この戦いで陳余と張耳は、昔は刎頚の仲、今は仇という直接対決となった。戦いの結果は、韓信の背水の陣の計略により漢軍が圧勝。この時も、張耳は敵の軍師の李左車と陳余の関係がうまくいってないことや、陳余が猪武者だということを伝えた。そして、それを大いに役立たせて陳余にわざと侮らせた韓信が勝利を得たのである。やがて張耳の武将が陳余を討ち取り、その恨みを晴らす。趙王歇も信都で捕虜になった。
[編集] 井陘の戦い後の張耳
井陘の戦いの後、張耳は漢王・劉邦の施しにより、趙の王となった。その後、張耳は年老いたこともあり、あまり戦乱に身を投じず、静かに暮らしたという。そして二年後の紀元前202年、張耳は亡くなった。その亡き顔には穏やかな笑みが漂っていたという。 次の趙王に次男の張敖が継いだ。彼は既に先妻がいて息子達を儲けていたが、劉邦の娘の魯元公主を正室として娶り、その間に張偃が生まれた。紀元前198年に趙の廷尉の貫高らがクーデターを起こした罪によって、張敖は王位を剥奪され、宣平侯に降格した。紀元前189年に張敖は亡くなった。嫡子の張偃が継いだ。紀元前180年、陳平や周勃等の元勲達や劉邦の孫らによるクーデターが発生し、呂雉の血筋を引いている張偃ら兄弟が粛清されそうになるが、亡き魯元公主の子ということで、爵位剥奪で済んだ。その代わり、張偃の異母兄の張寿は学昌侯に、もう一人の異母兄の張侈は信都侯として封じられることになる。(共に張敖の先妻の子) しばらくして、文帝が即位すると、張偃は爵位を復帰することになり、今度は新たに南宮侯として以後も存続し、のちの五胡十六国時代の前涼の創建者張軌は張耳の17代目の子孫である。