廣松渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
廣松 渉(ひろまつ わたる、男性、1933年8月11日 - 1994年5月22日)は、日本の哲学者、東京大学名誉教授。
福岡県柳川市蒲池出身。出生地は山口県厚狭郡山陽町(現在の山陽小野田市)
東京大学文学部哲学科卒。同大学院博士課程修了。筆名は門松暁鐘など。
目次 |
[編集] 略歴
1946年、日本青年共産同盟に加盟。 1949年4月、高校進学と同時に日本共産党に入党し、1950年の50年分裂では国際派に所属し、 1951年に国際派の「全国統一会議」が解散した後は、党に戻らず全日本学生自治会総連合(全学連)などで活動。高校中退、大検で東大に入学。 1955年7月の日共第六回全国協議会(六全協)を受け復党するも、翌1956年に出版した共著書が問題とされ離党した。
1958年12月に共産党と敵対する共産主義者同盟(ブント)が結成されると以降、理論面において長く支援し続けた。 ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊しつつあった1990年にはフォーラム90sの発足にも関わった。
名古屋大学の助教授を辞めた後、しばらく浪人の身となり、1982年4月から1994年3月まで東京大学の教授を務めた。 1994年5月22日肺癌にて死去。
[編集] 思想
マルクス/エンゲルスの思想における物象化論を中心に、マッハ、フッサール、ハイデッガー等と対質しながら、特異な擬古文調・擬漢文調の文体を用いて、主観-客観の二項対立図式を止揚すべく独自の哲学を展開した。
物理学出身でもあるためか、その思想展開は強固に論理的であり、良く言えば「理詰め」であり、感覚的側面は希薄である。
マルクス主義思想の世界において、疎外論を批判し物象化論を重視するマルクス/エンゲルス解釈は有力説となリ、またエンゲルスの再評価についても寄与したが、他方で党派の枠を越えて広く思想的影響を及ぼした哲学者でもある。「日本には哲学史家や哲学輸入業者は多いが真の哲学者は少ない」云々といわれるとき、「真の哲学者」として念頭におかれるのはこの廣松や、廣松を東大に招いた大森荘蔵であることが多い。しかし反面では運動の現場からは講壇思想(学者思想)の域を出ていないとする批判も根強く存在する。最晩年はマルクス護教派を自認。
理論だけではなく思想史にも関心が強く、マルクスの思想形成に関連した青年ヘーゲル派や初期社会主義の思想史、日本の昭和前期の思想史についての著作もある。 その示唆している事的世界観は、マルクスが意味する幻像状態の意味での「事」Sacheへと向かえ、とするものではない。逆に、その幻像状態を自覚して、判断される前のものとしての「事態」Sachverhaltへ向かえ、と説かれている。それは仏教や量子物理学におけるような、個的主体の判断一般を錯視視することに、つながる。マルクスはしかし判断一般を留保しろと言っているのではないので、ここから先において、廣松は無自覚のうちにマルクスから離反している。
[編集] 主な著作
- 『マルクス主義の地平』(勁草書房、1969年)
- 『唯物史観の原像』(三一書房、1971年)
- 『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房、1972年)
- 『事的世界観への前哨』(勁草書房、1975年)
- 『マルクス主義の理路』(勁草書房、1980年)
- 『存在と意味』第1巻(岩波書店、1982年)
- 『存在と意味』第2巻(岩波書店、1993年)