広瀬哲朗
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広瀬 哲朗(ひろせ てつろう、1961年1月23日 - )は、静岡県静岡市清水区(旧庵原郡蒲原町)出身。昭和末期から平成期(1980年代後半-1990年代)のプロ野球選手。現在は野球解説者、タレント。また、女子野球日本代表監督を務めた(現在は顧問)。
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[編集] 来歴・人物
静岡県立富士宮北高等学校から駒澤大学(卒業時にヤクルトスワローズに4位指名されるが拒否)、本田技研を経て1986年ドラフト1位で日本ハムファイターズに入団。
日本ハムの選手の中では割と認知度の高い選手であったが、レギュラーとしての活躍がさほどなく守備要員に甘んじていた。しかし1993年に大沢啓二監督が就任すると、「お前の様な闘志みなぎる人間がベンチウォーマーではけしからん。お前がグイグイ引っ張る様になれ」と大沢の指名で主将に就任。田中幸雄が故障で外野にコンバートされ、正遊撃手のポジションを奪い、闘志あふれるプレーと1塁でさえもヘッドスライディング(1塁ベース周辺のアンツーカーを叩いて喜ぶ時もある)、スキンヘッド(20代終盤から薄毛進行の為)と、しゃべりが面白いキャラクターで人気を博した。
以降現在まで、大沢親分の一の子分的な存在である。1993年と1994年には2年連続でベストナインとゴールデングラブ賞(遊撃手部門)を受賞している。ちなみに当時の背番号は1。この背番号は広瀬が引退後阿久根鋼吉がつけていた。2004年以降は新庄剛志(SHINJO)がつけ、2007年からは森本稀哲がつける。奇遇ではあるが、背番号「1」がスキンヘッドの背中に戻った。日本ハム球団でもパ・リーグとしても記憶に残るガッツマンである。
また、1995年のパ・リーグ東西対抗戦でイチローがマウンドに上がったことがある。この時、ピッチャーゴロに打ち取られた。広瀬によれば、本来は当時西武ライオンズの清原和博が打席に入るところだったが、清原が広瀬に「俺が打席に入って三振でもしたらどうするんだ。広瀬さん、行ってくれ」と言ったそうである。
1999年シーズン限りで現役を引退後はテレビ朝日・文化放送解説者に就任。タレントとして活動するかたわら、女子野球日本代表監督に就任。「広瀬哲朗&紫艶」名義でCDデビューもしている。2002年に日本ハムの北海道移転構想が発表された頃から北海道での活動が多くなり、現在は東京から北海道に住居を移した。2004年にはSTVラジオ・北海道文化放送の野球解説者に就任。同年4月からは同局の「YASUのえき☆スタ@noon」(現・「土曜えき☆スタUP」)にレギュラー出演した。2005年3月からは「スポーツワイド Fの炎~SPORT HOKKAIDO~」のコメンテーターを担当する。
ただし、北海道はまだ解説者が少ないことから他局でのプロ野球中継でも解説を担当することがある。中継では「ファイターズのご意見番」と紹介されることもある。その風貌、さらには話し方も良く似ていることからか松山千春とよく間違えられる。
また、2005年2月12日に自身が総監督を務める社会人野球チーム「サウザンリーフ市原」が千葉県野球連盟に加盟申請を行った。チームの本拠地は千葉県市原市にある。 その後広瀬はサウザンリーフ市原を辞めてCBC北海道(現北海道マーリンズ)へ転じ、こちらで総監督を務めている。なお、このチームのスーパーアドバイザーには先述の松山千春が就いている。
2005年からは北海道釧路市で定期的に開催される少年野球教室『広瀬塾(Hirose Baseball Academy)』の塾長として活躍をしている。
[編集] 通算成績
- 966試合 2268打数 592安打 12本塁打 84盗塁 173打点 104犠打 打率.261
[編集] タイトル・表彰
- 2回(遊撃手 1993年、1994年)、
- 2回(遊撃手 1993年、1994年)
[編集] エピソード
- 応援歌のファンファーレは「男はつらいよ」のテーマである。
- 久保田利伸は中学時代の後輩で、後年日本ハムのCMで共演した。
- 現役時代12本しか本塁打を打っていないことを勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレーで度々周囲からネタにされている。
- また、広瀬の本塁打の映像がよく1988年の開業初年度の東京ドームでの本塁打の映像が使用されるのだが、この本塁打後、ベンチに戻りヘルメットを取った際、髪の毛が今とは違いフサフサだったこともネタにされる。
[編集] 現在の出演番組
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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