川島郭志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川島郭志(かわしま ひろし、1970年3月27日 - )は、徳島県出身の元プロボクサーで、WBC世界ジュニアバンタム級(現・スーパーフライ級)王座を6度防衛。現在は東京都内で川島ジムを開設し、後進の育成に力を注いでいる。
デビュー当時は実力はありながら世間の評価は派手な三羽烏(辰吉・鬼塚・渡久地)に目が行きがちであり三番手、四番手の扱いであり続けたがクサる事無く弱点を着実に克服していった点で評価は高い。
現役時代は日本ボクシング史上屈指のテクニシャンとも称され、中でも。"アンタッチャブル"(触らせない)と称された防御技術は世界的にも高い評価を得ていた。スリッピング・アウェーと呼ばれる防御技術を日本人として初めて活用したのもこの人である。また、普段の練習態度も極めて真面目で、"ボクサーの鑑"というべき存在でもあった(世界王座獲得後も電車でジム通いを続けていた)。
[編集] 経歴
- 幼少時から5歳上の兄・志伸氏とともに、理髪店を経営する父・郭伸氏から強制的にボクシングの英才教育を施される。
- 地元・徳島の海南高校3年時にインターハイフライ級で優勝。この時、準決勝で前年度ライトフライ級優勝の鬼塚隆(後の鬼塚勝也)を、決勝では渡久地隆人(後のピューマ渡久地)をそれぞれ降している。
- 高校卒業後の1988年にヨネクラジムに入門、同年8月にプロデビュー。
- 1988年12月21日、東日本新人王決勝戦で渡久地に6回1分24秒KO負け。さらに、翌1989年7月1日にはA級トーナメント予選で川島光夫に1回1分56秒KO負け(ちなみに、この川島光夫は1987年に後のWBC世界バンタム級王者薬師寺保栄を破っている)。
- 打たれモロさを露呈した川島は、それを克服するために防御技術を飛躍的に向上させる。
- 1991年1月の試合で左拳を骨折。治り掛かった所で再び骨折してしまい、結果として1年あまり試合から遠ざかる。
- 1992年7月、日本スーパーフライ級王座を獲得(3度防衛後返上)。
- 日本王座在位中の同年12月、誕生時から支えてくれた母・志津子さんを突然の病で失う。
- 1994年5月4日、世界初挑戦。WBC世界スーパーフライ級王者ホセ・ルイス・ブエノ(メキシコ)に挑み、12回判定勝ち。王座奪取に成功。
- 1994年8月、初防衛戦。後にIBF世界フライ級王者となるカルロス・サラサール(アルゼンチン)を12回判定に降す。なお、会場となった有明コロシアムは当日、屋根を開けていたため、屋外・猛暑の中での試合となった。
- 1995年1月、2度目の防衛戦で前王者ブエノと再戦。前回同様、12回判定に降し、返り討ちに成功。この試合の前日、阪神・淡路大震災が発生し、試合前のセレモニーでは黙祷が行われた。
- 同年5月、前年4月に鬼塚勝也を苦しめた李承九(韓国)を相手に3度目の防衛戦。10回にダウンを奪われるも、それ以外は危なげない試合運びを見せ、文句なしの12回判定勝ち。
- 同年11月、ポーイ・アルアン(インドネシア)を3回KOに降し、4度目の防衛に成功。ちなみに、日本人対インドネシア人による世界戦はこれが初めてだった。
- 1996年4月、セシリオ・エスピノ(メキシコ)を12回判定に降し、5度目の防衛に成功。終始一方的に攻め立て、非の打ち所のない完勝であった。
- 同年10月、ドミンゴ・ソーサ(ドミニカ共和国)を2回TKOに降し、6度目の防衛に成功。右フックから電光石火のラッシュを浴びせ、レフェリーストップを呼び込んだ。
- 1997年2月20日、7度目の防衛戦でジェリー・ペニャロサ(フィリピン)と対戦するも、12回判定で敗れ、王座陥落。この試合を最後に引退した。天才的な防御が自慢の川島が眼疾で引退する皮肉な結果になった。
- 引退後、芸能活動を行う傍ら、ボクシング解説者としても積極的に活躍し、2005年に東京都大田区に川島ボクシングジムを開設。
前王者 ホセ・ルイス・ブエノ |
第13代WBC世界スーパーフライ級王者 1994年5月4日 - 1997年2月20日 |
次王者 ジェリー・ペニャロサ |
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 日本のボクサー | 徳島県出身の人物 | 1970年生 | ボクシング関連のスタブ項目