巌谷小波
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巌谷小波(いわや さざなみ、明治3年6月6日(1870年7月4日) - 昭和8年(1933年)9月5日)は、明治、大正期の作家、児童文学者。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人(さざなみさんじん)。東京麹町生まれ。
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[編集] 経歴
[編集] 医学を拒否して文学へ
巌谷家は近江水口藩の藩医の家柄で、父の一六(いちろく)は明治政府の高級官僚でのち貴族院議員、書家として著名であった。少年期より文学に興味をもち、裕福な家庭に育った。獨逸学協会学校(現:獨協中学・高等学校)へ入学するも、医者への道を歩ませられることを嫌い、周囲の反対の中で文学を志して進学を放棄し、1887年文学結社の硯友社に入る。尾崎紅葉らと交わって、機関誌「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」に「五月鯉(さつきごい)」などの小説を発表したが、少年少女のセンチメンタルな恋愛を描く作品が多かった。
[編集] 児童文学者へ転進
1891年、博文館の「少年文学叢書」第1編として出版した児童文学の処女作『こがね丸』が圧倒的好評を得て、近代日本児童文学史をひらく画期的作品となり、以後博文館と組んで児童文学に専心し、種々の児童向けの雑誌や叢書を刊行した。転進前の小説の多くは清純な魅力とともに感傷的な一面もあり、小説としては未熟ともいえた。その点でこの転進は文学的にも大きな成功であった。
[編集] お伽噺を開拓
作品の多くは彼自身が編集する博文館発行の雑誌「少年世界」(1895年創刊)に掲載された。以後同社の「幼年世界」、「少女世界」、「幼年画報」などの主筆となって作品を執筆、さらに「日本昔話」(1894年~1896年)、「日本お伽噺」(1896年~1898年)、「世界お伽噺」(1899年~1908年)など、大部のシリーズを刊行した。今日有名な『桃太郎』や『花咲爺』などの民話や英雄譚の多くは彼の手によって再生され、幼い読者の手に届いたもので、児童文学の開拓者というにふさわしい業績といえる。
[編集] 口演童話、児童劇を開拓
内外の昔話や名作をお伽噺として平易に書き改める仕事のほか、童話の口演や戯曲化も試み、全国を行脚してその普及に努めた。後進の指導にも熱心で、創作家のみならず、童話口演の分野でも新人を育てており、近代児童文学の生みの親である。自伝『我が五十年』(1920年)、息子で文芸評論家故・巌谷大四による『波の跫音(あしおと)―巌谷小波伝』(1974年)がある。
[編集] 家系
父巌谷一六は書家・貴族院勅選議員。長男巌谷槇一は劇作家・演出家。次男巌谷栄二は児童文学研究家。四男巌谷大四は文芸評論家。栄二長男の巌谷國士は仏文学者・評論家。國士叔父の藤村益三は最高裁長官、のち弁護士。國士従兄の橋口稔は英文学者・東大名誉教授。同じく橋口収は大蔵次官。
[編集] 関連項目
- 武内桂舟 「こがね丸」、「少年世界」掲載の作品の挿絵画家