島津久逸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
島津 久逸(しまづ ひさやす、嘉吉元年(1441年) - 明応9年(1500年))は室町時代の島津氏一族。島津家九代当主・島津忠国の第三子。子は島津善久(島津忠良の父)。
薩摩の守護大名、島津氏の分家である伊作家の八代当主。島津本家の九代当主、島津忠国の第三子であったが、伊作家七代当主の島津犬安丸が幼くして急死したため、伊作家を相続した。
文明5年(1473年)、久逸は島津家十代当主、島津立久の命で日向櫛間にて伊東氏に備えていた。飫肥の新納氏は、立久の死後本家を継いだ十一代当主、島津忠昌に久逸を伊作へ還すように願い出て、忠昌はこれを聞き入れる。久逸はこの命に反発、日向の伊東氏や豊後の大友氏とともに飫肥城を攻撃、忠昌に叛旗を翻す。久逸の連合軍は忠昌の居城であった鹿児島清水城に迫ったため、忠昌は妻子を伊集院一宇治城に避難させるまでになった。
文明16年(1484年)、忠昌は分家である相州家の島津友久・薩州家の島津国久ら島津一族を率いて出陣。末吉で敗れた久逸は櫛間に退却、同年降伏し伊作へ戻ることとなった。
伊作に戻った久逸だったが、明応3年(1494年)、嫡子の島津善久が下男により殺害されるという事件が起こった。久逸自身も薩州家の内紛に巻き込まれ、明応9年(1500年)、薩州家の島津忠興に攻められ戦死した。享年60。