山形市立商業高等学校
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山形市立商業高等学校(やまがたしりつしょうぎょうこうとうがっこう、英称:Yamagata Commercial High School)は、山形県山形市にある、市立の商業高等学校である。通称「山形商業」、「山商」。
日商簿記検定など各種検定の取得に強く、就職率に定評がある。商業高校という名前のイメージからか進路は就職のみと考えられがちだが、卒業後の進路は約半分が進学しており、指定校推薦なども多数ある。 またSELHi(スーパーイングリッシュランゲージハイスクール)に指定されている。 部活動ではレスリング部が全国有数の強さを誇り、よい結果を残している。
現在の学科は総合ビジネス科、経済科、国際コミュニケーション科、で総合ビジネス科は二年次からのコース制となっている。
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[編集] 沿革
- 1918年(大正7年)4月1日 - 市立山形商業学校設置認可を受ける
- 1924年(大正13年)6月27日 - 十日町より小荷駄町に移転
- 1944年(昭和19年)3月31日 - 市立山形工業学校に転換、市立山形工芸学校併置
- 1946年(昭和21年)3月31日 - 市立山形工芸学校廃校
- 1948年(昭和23年)3月10日 - 市立山形商業高等学校設置
- 1951年(昭和26年)3月31日 - 市立山形商業高等学校廃校
- 1951年(昭和26年)4月1日 - 旧市立山形商業高等学校と旧市立山形女子商業高等学校を統合し、山形市立商業高等学校設置
- 1960年(昭和35年)9月27日 - 財団法人長谷川学事奨励基金設立
- 1975年(昭和50年)4月21日 - 小荷駄町よりあかねヶ丘に移転
[編集] 校章、校訓
- 校章:マーキュリー
- 校訓:輸誠(ゆせい)
[編集] 友好校
[編集] 歴代校長
- 初代 渡辺徳太郎(大正7年4月30日 - 昭和8年9月30日)
- 第2代 住登勝蔵(昭和8年11月27日 - 昭和16年12月27日)
- 第3代 川村平七(昭和17年2月21日 - 昭和19年2月3日)
- 第4代 今田実(昭和19年3月31日 - 昭和21年3月31日)
- 第5代 矢部一郎(昭和21年4月1日 - 昭和23年11月4日)
- 第6代 岩掘庄作(昭和24年2月28日 - 昭和27年3月31日)
- 第7代 関原吉雄(昭和27年4月1日 - 昭和31年3月31日)
- 第8代 金森一平(昭和31年4月1日 - 昭和36年3月31日)
- 第9代 中山二郎(昭和36年5月16日 - 昭和39年3月31日)
- 第10代 庄司徳治(昭和39年4月1日 - 昭和39年8月31日)
- 第11代 遠藤修平(昭和39年9月1日 - 昭和46年3月31日)
- 第12代 田口勝海(昭和46年4月1日 - 昭和48年3月31日)
- 第13代 高山法彦(昭和48年4月1日 - 昭和52年3月31日)
- 第14代 軽部晋四郎(昭和52年4月1日 - 昭和53年3月31日)
- 第15代 後藤孝夫(昭和53年4月1日 - 昭和57年3月31日)
- 第16代 高橋秀(昭和57年4月1日 - 昭和60年3月31日)
- 第17代 大内和雄(昭和60年4月1日 - 昭和62年3月31日)
- 第18代 西塚常弥(昭和62年4月1日 - 平成5年3月31日)
- 第19代 山口隆司(平成5年4月1日 - 平成7年3月31日)
- 第20代 田口健一(平成7年4月1日 - 平成9年3月31日)
- 第21代 庄司昌弘(平成9年4月1日 - 平成12年3月31日)
- 第22代 濱田卓良(平成12年4月1日 - 平成15年3月31日)
- 第23代 角川信一郎(平成15年4月1日 - 平成18年3月31日)
- 第24代 相馬周一郎 (平成18年4月1日 - 現在)
- ()内は在職期間
[編集] 出身者
- 笹原正三、レスリング選手、メルボルン五輪金メダリスト、元JOC副会長。
- 高橋みゆき、バレーボール選手。
- 山川元、映画監督。
- 市川昭男、山形市長。
- 佐藤清、村山市長。
- 山澤進、ヤマザワ代表取締役社長、山形商工会議所会頭。
- 鈴木傳四郎、でん六代表取締役会長。
- 峯田和伸、歌手。(生徒会会計)
- 村井守、歌手グループ「銀杏BOYZ」メンバー。
- 高野和隆、サッカーJFLソニー仙台サッカー部選手。