山崎猛 (政治家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山崎 猛(やまざき たけし、1886年6月15日 - 1957年12月27日)は第38代衆議院議長・運輸大臣などを務めた日本の政治家。茨城県水戸市出身。旧制第一高等学校中退、代用教員・新聞記者・新聞社社長を経て政界入りした。
[編集] 略歴
- 1920年:立憲政友会公認で総選挙に出馬し初当選。
- 1922年:水戸市長。
- 1936年:廣田内閣農林政務次官。
- 1946年:第38代衆議院議長。
- 1948年:民主自由党幹事長となるが、首班工作事件が原因で議員辞職。
- 1949年:総選挙に当選し返り咲く。
- 1950年:第3次吉田内閣運輸大臣。
- 1951年:第3次吉田内閣第3次改造内閣経済審議庁長官。
[編集] 首班工作事件
1948年、芦田均率いる連立政権が昭電疑獄によって倒れて芦田自身が逮捕されると言う事態に陥った。GHQでは前政権に参加していなかった民主自由党総裁吉田茂(元首相)を後継首相にする他ないという見解であったが、吉田を嫌ったGHQ民政局は当時の民自党幹事長山崎を首班とした連立内閣の成立を画策した。民政局の打診に対して山崎と総務会長星島二郎は前政権与党である民主党や日本社会党の連立参加を条件に了承し、民自党内でも「吉田総裁では次期首相は無理」という説が広がった。
民自党分裂を恐れた広川弘禅・白洲次郎らがこの動きを吉田に知らせ、吉田が直接GHQ最高司令官マッカーサー元帥に確認したところ、マッカーサーはこの動きを承知しないと返答し、吉田内閣が成立すれば協力する意向を伝えた。このため、民自党内では一転して山崎・星島への非難が高まり、山崎が益谷秀次に説得されて議員を辞職したためこの工作は失敗した。これによって発足した第2次吉田内閣は程なく総選挙に訴える。なお、この選挙で議員に復帰した山崎は、選挙後に発足した第3次吉田内閣において運輸大臣として入閣する事となった。
カテゴリ: 1886年生 | 1957年没 | 日本の国会議員 | 日本の国会議員 (1890-1947) | 日本の閣僚経験者 | 茨城県の政治家 | 都道府県知事・市町村長