山崎宗鑑
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山崎宗鑑(やまざきそうかん、寛正6年(1465年)? - 天文22年(1553年)?)は、戦国時代の連歌師・俳諧作者。本名を志那範重、通称を弥三郎と称し、近江国の出身とされるが、本名・出自にについては諸説あり定かではない。
室町幕府9代将軍足利義尚に仕えた(近習とも祐筆とも)が、義尚の陣没(延徳元年1489)後出家し、摂津国尼崎または山城国薪村に隠棲し、その後淀川河畔の山城国(摂津国?)山崎に庵「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。大永3年(1523)ごろ山崎の地を去り、享禄元年(1528)に讃岐国(香川県観音寺市)の興昌寺に庵「一夜庵」を結びそこで生涯を終えた。「一夜庵」の名は宗鑑が長居の客を厭い一夜以上の宿泊を断ったからといい、建物は修復を重ねながら現地に残されている。宗祇・宗長・荒木田守武などと交流し俳諧連歌を興隆した。宗鑑の連歌作品として伝わるものはわずかであるが、俳諧連歌のもっとも早い時期に編纂された俳諧撰集「犬筑波集」があり、その卑俗奔放な句風は、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与えた。なお、荒木田守武とともに、俳諧の祖と称される。能筆家としても有名で生計は書を売ることによって立てていたとも伝わる。 晩年「ヨウ(できもの)」を患いそのために命を失うことになる。したがって辞世は「宗鑑はいづくへと人の問うならば ちとよう(ヨウ)がありてあの世へといへ」。