尹致昊
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尹致昊(いん ちこう、ユン・チホ、1865年1月16日 - 1945年12月9日)は、李氏朝鮮末期の政治家・啓蒙運動家。日韓併合の後に朝鮮貴族・貴族院議員。日本名伊東 致昊。波平尹氏。
忠清南道の牙山市に朝鮮の軍部大臣を務めた尹雄烈の息子として生まれる。1881年に朝鮮初の日本留学生(慶応義塾大学に留学)となり、開化思想に触れる。帰国後、甲申政変に開化派として参加するが、開化派が敗北すると上海に逃れた後にアメリカにも留学。上海滞在時にメソジストの洗礼を受けアメリカでもキリスト教の思想に触れるが、この時過酷な人種差別を受けたとも言われている。帰国後、1896年に独立協会を結成。独立新聞を創刊し、朝鮮人による自力の近代化を説いた。やがて政権に迎えられ、第一次日韓協約締結時には外部大臣を務めた。
日韓併合後、1911年に105人事件の首謀者として起訴されるが、1915年に親日派に転向して釈放される。三・一独立運動が勃発した際にも「もし弱者が強者に対して無鉄砲に食って掛かったら強者の怒りを買って結局弱者自体に累が及ぶ」と否定的なコメントを残している。その一方で熱心なクリスチャンだったため、朝鮮キリスト教界の最高元老としても影響力を保持していた。また、彼の説いた「実力養成論」は後の独立運動家にも多大な影響を残し、一方で民族資本家や民族教育機関を育てる契機にもなった。一説には大韓帝国の国歌・愛国歌の作詞者であると言われ、現在の大韓民国の国歌・愛国歌の詩のもとになったという説があるが、詳細は不明である。
[編集] 参考文献
- 梁賢惠 著『尹致昊と金教臣その親日と抗日の論理 近代朝鮮における民族的アイデンティティとキリスト教』1996年9月 新教出版社 ISBN 4400426270