小笠原貞頼
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小笠原 貞頼(おがさわら さだより)は、安土桃山時代の徳川家家臣。通称彦七郎・又七郎。一般に信濃国深志城城主で1593年に小笠原諸島を発見したとされる人物だが、架空の人物である可能性が高く、小笠原氏の系図にも見えない。
文禄元年(1593年)、徳川家康の命令を受けて南方探索の航海に出た貞頼によって小笠原諸島が発見され、貞頼にちなんで「小笠原」と命名されたと言われている。
当時の小笠原氏当主は小笠原貞慶であるが、文禄年間には豊臣秀吉の怒りを買って所領を奪われており、深志城(松本城)城主は徳川家康から離反したばかりの石川数正である。また、小笠原長隆(貞慶の兄で父長時に先立って戦死)の息子とする伝承があるが、長隆の子としては小笠原吉次(徳川氏家臣)が確認できるのみで貞頼の名前は無い。
貞頼の子孫と称する小笠原貞任が享保12年(1727年)に「貞頼による小笠原島探検」を主張したのが貞頼の初出であり、それ以前の史料では貞頼の存在および小笠原探検の事実を裏付けるものは一切無い。
このため、架空の人物とする説が有力であり小笠原島探検についても同様に架空とする説が有力である。
一方、永禄年間に三河国幡豆郡にいた小笠原氏の庶流の世話となっていた小笠原長隆・貞慶兄弟が徳川家康の客将となっていた時期があることが判明しているが、『寛政重修諸家譜』によれば同じく庶流であった遠江国高天神城城主小笠原長忠が武田信玄に攻められた時に長隆が同族と見られる「民部貞頼」とともにその救援に向かったという記事が掲載されている。また同時期の史料にも実名不明の「小笠原民部大輔」という人物が徳川氏に仕えていたという記録がある。ここから「民部貞頼」=「小笠原民部大輔」=小笠原貞頼と考えて実在説を唱える人もいるが、決定的な証拠には欠けていると見る向きも多い。