小田野直武
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小田野 直武(おだの なおたけ、寛延2年12月11日(1750年1月18日) - 安永9年5月17日(1780年6月19日))は江戸時代中期の画家。秋田藩士。通称を武助。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。
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[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
小田野直武は角館に生まれる。角館は、秋田藩佐竹家の分家である佐竹北家が治める土地であった。幼少より絵を好み、狩野派を学び、また浮世絵風の美人画も描く。やがて絵の才能が認められ、佐竹北家の当主佐竹義躬、秋田藩主佐竹義敦(佐竹曙山)の知遇を受ける。
[編集] 平賀源内との出会い
安永2年(1773年)7月、鉱山の技術指導のために、平賀源内が秋田を訪れ、直武と出会う。一説には、宿の屏風絵に感心した源内が、作者である直武を呼んだという。
源内は直武に西洋画を教えた。伝説では「お供え餅を上から描いてみなさい」と直武に描かせてみせ、輪郭で描く日本画では立体の表現は難しく、西洋絵画には陰影の表現があるのでそれができると教えたという。源内自身は「素人としては上手」という程度の画力であるが、遠近法、陰影法などの西洋絵画の技法を直武に伝えた。
同年10月、源内は江戸へ帰る。同年12月直武は「銅山方産物吟味役」を拝命して江戸へ上り、源内の所に寄寓する。
[編集] 『解体新書』を描く
そのころ、前野良沢・杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳作業が行われていた。図版を印刷するため、『ターヘル・アナトミア』などの書から大量に図を写し取る必要があった。杉田玄白と平賀源内は親友であり、おそらく源内の紹介によって、小田野直武がその作業を行うこととなる。
実は既に安永2年中に、『解体新書』の予告編である『解体約図』が発行されており、その図は熊谷儀克が描いていた。『約図』と『新書』の図を比べると、やはり直武による『新書』の方が、陰影表現の点で優れている。
直武は『解体新書』の序文に「下手ですが、断りきれないので描きました…」といった謙虚なことを書いている。
[編集] 秋田蘭画の形成
直武は源内のもとで、西洋絵画技法を自己のものとし、日本画と西洋画を融合した画風を確立していく。また、佐竹曙山や佐竹義躬へ絵の指導を行う。この3人が中心になった一派が「秋田蘭画」と呼ばれることになる。
のちに日本初の銅版画を作り出す司馬江漢もこのごろ直武に絵を習ったようである。
[編集] 死
安永8年(1779年)11月、直武は突然の遠慮謹慎を申し渡され、秋田へ帰る。おそらくは、平賀源内の刃傷事件が起こり、かかわりあいになるのを恐れての処置と思われる。ただし、直武の帰国は刃傷事件の前だとする説もある。
翌年5月、小田野直武急死。死因はわからない。病死説や、政治的陰謀による切腹説がある。
[編集] 代表作
- 不忍池図
- 唐太宗・花鳥山水図
- 笹に白兎図
- 岩に牡丹図