小沢辰男
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小沢 辰男(小澤 辰男、おざわ たつお、大正5年(1916年)12月7日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員。新潟県新潟市出身。建設大臣、厚生大臣、環境庁長官などを歴任した。父は衆議院議員の小沢国治。
昭和16年(1941年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。同年内務省に入省する。中曽根康弘は東京帝大、内務省で同期。戦後、内務省が解体されると厚生省に移り、昭和24年(1949年)厚生省医務局整備課長。公衆衛生局、保険局などで務める。
厚生省を退官し、昭和34年(1959年)地元の新潟硫酸取締役や新潟米油社長を務める。昭和35年(1960年)衆議院議員総選挙に旧新潟1区から自由民主党公認で立候補し当選する。以後当選回数13回。
自由民主党田中派の大幹部で木曜クラブ事務総長などを務める。田中角栄の金庫番とも言われ、田中の最側近の一人であった。田中派には同姓の小沢一郎がいたため、二人を区別するため、小沢辰男は「本家小沢」などとも呼ばれた。田中派内では田中直系として終始行動し、田中角栄も竹下登と後見役の金丸信を抑えるために自民党幹事長に小沢を送り込もうとしたが、これは果たせなかった。田中派分裂に際しては、竹下派、二階堂グループ双方に参加せず、無派閥となる。
平成5年(1993年)自民党を離党し、羽田孜、小沢一郎らの結成した新生党に参加する。平成6年(1994年)新進党に参加するが、新進党解党に際しては、改革クラブを結成し代表となる。改革クラブは、旧公明党系の新党平和と院内会派「平和・改革」を結成し、小沢辰男は代表となる。
平成12年(2000年)第42回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界を引退した。
自民党離党の前後に新潟国際情報大学の運営法人新潟平成学院理事長に就任している(現在は名誉職の学院長)。
- 改革クラブ代表
- 初代: 1998 ‐ 2000
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- 先代:
- 結成
- 次代:
- 解散