小宮隆太郎
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小宮 隆太郎(こみや りゅうたろう、1928年 - )は経済学者。専門は国際経済学。日本の経済政策提言の草分け、その攻撃的スタイルに影響を受けた経済学徒は多い。教え子に太田房江大阪府知事や中馬弘毅国務大臣がいる。日本の経済論争においての重要人物
京都府出身。1952年東京大学経済学部を卒業後、1955年からは東京大学経済学部助教授、次いで同教授を歴任。元来の専攻は国際経済学であったが、その枠にとどまることなく、金融論から産業政策論まで幅広く戦後の経済学並びに経済論壇をリードし続けた。特に戦後の様々な経済政策論争に参加し常に経済学者や経済学徒達を魅了し続けてきたことは他に類例を見ない。その攻撃的な知的スタイルはまさにスミス以来の経済学徒としてのスタイルを踏襲している。理論と政策提言の乖離が甚だしい日本の経済学界において、「理論」と「実践」の両面で長らく第一線の地位を占め続けた小宮は、極めて例外的な存在である。東京大学退官後、1989年には青山学院大学国際政治経済学部教授に就任。この間、1964年~1965年にはスタンフォード大学客員教授、1988年~1997年には通産省通商産業研究所長を兼ねた。1972年には松永賞、2002年には文化勲章を授与されている。弟子には、須田美矢子や岩田規久男、斎藤精一郎がいる。
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[編集] 小宮の関わった論争
[編集] 「昭和48,49年のインフレーション」 ~1970年代~
今日まで続く、標準的経済学と日銀理論の相克(マネーサプライ論争)の元祖とも言うべきもので、1973年~1974年にかけての日本経済の狂乱物価の原因を巡って争われた。この狂乱物価の原因について、俗世間の認識としては、第1次石油危機の為に生じたとされるのが一般的であろうが、経済学界においては、上記の原因に加えて、田中角栄内閣による金融緩和圧力を受けた日銀が、マネーを過剰に供給し過ぎたことに由来すると考える向きが多い(それ以外に、相場制の激変期に際して、日銀が円高圧力を吸収しようとしたことが、過剰流動性を生んだとする考え方もある)。日銀によるマネーサプライ管理の有責性が問われた中で、そもそもの話としてマネタリーベースの操作性を否定しようとする日銀に対し、「日銀はその操作を通じてマネーサプライを適正な伸びに抑えるべき」との主張が小宮や堀内昭義によってなされた。結局、日本銀行側はマネタリーベースの操作性を公には認めなかったが、70年代後半~80年代前半の安定成長期においては、マネーサプライの管理にも一定の配慮をしていたものと思われる。しかし、80年代後半のバブル経済進行の過程において、再びマネーサプライの管理は忘れ去られ、その点を巡って90年代前半には、岩田規久男ら経済学者と翁邦雄ら日銀官僚との間で大論争が巻き起こることになるのであった。
[編集] 「産業政策の是非」 ~1980年代~
戦後、通産省を中心として実施されてきた産業政策の有効性を巡る議論。80年代は日本が最も輝いていた時代であり、欧米各国が石油危機等で苦しみ、発展途上国は相変わらず貧しい国が殆どという状況下で、戦後、劇的な経済成長を遂げ、この当時も安定成長を続けていた日本経済は、世界の賞賛の的であった。治安は良く、国民は勤勉であり、およそどの国よりも平等な社会を実現し(社会主義国の不平等さたるを見よ)、次々と新たな技術・製品を生み出し続けていた当時の日本(もしくは日本のシステム)を、世界各国はこぞって比較研究の対象とした。青木昌彦らによる比較制度分析も、こうした日本の異質性の解剖という時代文脈から生まれてきたと言ってよい。そして当時、そのような日本型システム(所謂、「Jシステム」)の核と見られていたのが、東京大学法学部出身者を中心に構成されたエリート集団たる、日本官僚制による様々な計画・指導の下で経済が動いているという物語(今となっては、敢えて「物語」と言わざるを得ない)であった。官僚機構の各種行政指導の中でも、極めて高い注目を集めたのが、大蔵省による金融行政と、通産省による産業政策であり、これらは内外の多くの識者(取り分け、保守系の評論家)から好意的に受け取られていた(村上泰亮の「開発主義」等)。
このような状況下において、小宮らは、産業政策が果たした役割について、実は必ずしも望ましいものとは言えなかったということを明らかにした。そして、90年代以降の日本官僚制の失策を目の当たりにして、小宮らの分析が、本質を突き、時代を先取りしたものであったことが分かっていくのである。現在、従来は官僚機構によって保護されてきた諸産業(金融業然り、農林水産業然り、建設業然り、或いは公的部門然り)が、その非効率さ故に苦しみあがいている。一方で、自動車や電機といった常に世界的な競争に晒されてきた産業は、相変わらず高い生産性を誇っているのである。この厳然たる事実を前にして、今や産業政策の有効性を説く論者は滅法少なくなった。かような一連の流れを見るにつけ、80年代の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」「ルック・イースト」の風潮の中で、当時、世界から絶賛され栄耀栄華を極めていた日本官僚制に対して、敢えて小宮達が政策的疑義を差し挟んだ意義の大きさを感じ取らざるを得ないのである。これはまさに、「科学としての経済学」の面目躍如であった(『日本の産業政策』はかような意味で、日本の経済学にとって記念碑的作品である)。そして、こうした産業政策に対する批判的検討は、その後も三輪芳朗らによって続けられている。
[編集] 「日米貿易摩擦」 ~1980年代後半から90年代半ば~
80年代~90年代前半にかけて、日米間で最も懸案となっていたのが、貿易摩擦である。自動車・半導体に代表される日本製品の集中豪雨的な輸出に対し、双子の赤字に苦しむアメリカ側からは不満が噴出していた。一部の論者(「前川リポート」等)からは、「日本の経済構造の閉鎖性が莫大な貿易黒字を生んでいる」といった主張がなされ、「日本の内需拡大・市場開放」を求める圧力が年々強まっていた。そのような状況下において、小宮は、「アメリカの貿易赤字の主因は、その貯蓄率の低さと、財政赤字の多大さにある」という経済学的には自明のISバランス論を唱え、アメリカ政府の不穏当な圧力(経済制裁)を批判したのである。更に小宮は、アメリカが円高圧力を強めてくるに際して、「円高によって、一時的に対日貿易赤字を減らせたとしても、一般均衡論的に解釈するならば、その分だけ日本のGDPが縮減され、引いては円が幾分切り下がることとなるので、結局のところ、当初の目的(対日貿易赤字縮小)を達成することは出来ない」と主張し、アメリカの政策の非論理性を明らかにした。また、日本の貿易黒字を悪と捉える風潮に対しても、小宮は、「日本の貿易黒字の大部分は、海外に再投資されており(=資本赤字)、外国経済の振興に役立っている」とする「黒字有用論」を展開し、俗世間の短絡的な思考を諌めた。最後に小宮は、そもそもの話として、「アメリカのような経済大国が貿易赤字に一喜一憂するのがナンセンス」とし、その例証として、戦後長らく貿易赤字国でありながら、今尚、一流先進国であり続けるカナダの存在を挙げた。要するに、「貿易=国際間における資源配分の最適化」という観点から、「貿易赤字=国家の衰亡」と捉える解釈自体の無意味さを説いたのである。このような小宮の主張は、官僚や国内経済学者から熱烈に支持された。また、アメリカ国内の経済学者の中にも理解を示す者が多く、ポール・クルーグマンらも著書の中で、経済学上の真理を曲げ、日本に圧力を加えるよう働きかける「政策プロモーター」と呼ばれる者達の存在を手厳しく非難した。
この一連の論争は、俗世間や国家の意思というものが、往々にして非科学的・非論理的な情緒や感情に支配され、彼らの行動を傲慢でおよそ理性的でないところにまでエスカレーションさせうることを示唆した点で、極めて意義深い(戦前の日本を見るまでもなく、かような性質というのは国家の負の側面として常についてまわりうる)。国際経済学においては、俗世間の思い込みとは異なる科学的知見をもたらす事柄が数多いのだが(比較優位の原理はその最たるものであろう)、ことこの貿易収支の話というのは、国家間にまたがる最も敏感な事象の一つであるにも関わらず、極めて誤解されることが多く、それだけに性質が悪いと言える。しかし、そういった性質を持っているだけに、この分野において「科学としての経済学」が果たさなければならない役割は大きいとも言えるのである。その意味で、小宮らが果たした役割というのは、極めて高く評価されるべきであり、且つ、あらゆる経済学者・経済学徒が範としなければならないものであった。
日米間の貿易摩擦は、その後、日本の各メーカーがアメリカに工場を置いて、現地生産・販売をする努力を重ねたことで、アメリカ側の扇情的な感情を抑えることに成功し、収束に向かった(その過程においては、多くのアメリカ人労働者を雇用することが出来、彼らの厚生向上に役立った)。90年代後半以降、それまで規制に護られてきた諸産業(金融業等)が日本経済の足を引っ張ってきた中で、世界に冠たる技術力を誇る日本の各メーカーによる、かような柔軟性・戦略性に富んだ行動というものもまた、あらゆる業種・業態の者が範としなければならないものであったろう。
[編集] 「日本の教育問題」 ~1990年代終盤~
文部省によるゆとり教育の推進の中で、多くの識者から「日本の教育水準はそれで維持出来るのか」という問題提起がなされた90年代終盤。そんな中、小宮と森嶋通夫の間で日本の教育についての論争が繰り広げられた。日本人(取り分け、東大生を始めとするエリート層)の学力低下を問題視する森嶋に対し、小宮は東大の同窓会誌の中で「今、私が教えている青山学院大学の学生の方が、数十年前の東大生よりも余程、難解な経済学を理解している」という主旨の主張を行った。しかしながら、小宮のその論理で言えば、「現代の大学生は、アインシュタインやニュートンよりも優秀だ」と主張することも可能となるのであり、それは如何にも時間軸の概念が欠如した議論に失している感が否めないものであった。
結局のところ、所謂「学力低下問題」そのものについては、森嶋の主張に沿った線で、話が進んでいる。ゆとり教育について、世論の痛烈な批判を受けた文部科学省は、政策の軌道修正を迫られたようである。しかし、森嶋が特に問題とした、エリート教育の再興なるものの議論については、今現在も決着を見ていないように思われる(勿論、中高一貫教育化の動きや、有名私立大学による付属小学校新設の動き、更には、一部名門都立高校の再興を巡る動きをどの程度斟酌するのかにも依存するところではあるが)。この点については、小塩隆士のように、非エリート教育の観点から教育の重要性を説く見解も現れており、尚、結論を見出すのは早いと言えるだろう。
[編集] 「ゼロ金利政策・量的緩和を巡る論争」 ~2000年前後~
橋本内閣の経済失政によって、90年代末の日本経済は未曾有の大不況に見舞われた。かような危機的経済状況の下で、日本銀行に対して非伝統的な金融政策(ゼロ金利政策・量的緩和)の導入を求める声が、内外の経済学者を中心に挙がった。日本銀行は、これらの政策提案について極めて消極的な対応を取ったのだが、そうした姿勢に対して、リフレーションを主張する陣営から手厳しい批判が加えられた。果たして、非伝統的な金融政策は、90年代末の危機的経済状況に対して有効な処方箋足りうるのか否か。この点について、欧米の経済学者をも巻き込んだ経済論争が行われたのである。日本では浜田宏一や岩田規久男、原田泰らがリフレーション政策を主張した一方で、翁邦雄ら日銀官僚や小宮、堀内昭義らは日銀擁護の論陣を張った。かつて、積極果敢に日銀理論に挑んだ小宮・堀内の両氏が日銀擁護に転じたことについては驚く向きも多かったが、90年代の小宮の発言を見るに、何かと言うと政府の経済政策に頼ろうとする日本人の「ドマクロ」的体質に嫌気が差していたのかも知れない。結局、この議論は、新たに登場した福井俊彦日銀総裁によるリフレ政策への一定の配慮と、2004年以降の景気回復の基調の中で、尻すぼみとなってしまった。
[編集] 著書
[編集] 単著
- 『ヨーロッパ経済の旅』(中央公論社 1974年)
- 『現代日本経済研究』(東京大学出版会 1975年)
- 『ジョーン・ロビンソン』(日本経済新聞社 1979年)
- 『現代日本経済』(東京大学出版会 1988年)
- 『現代中国経済』(東京大学出版会 1989年)
- 『貿易黒字・赤字の経済学』(東洋経済新報社 1994年)
- 『日本の産業・貿易の経済分析』(東洋経済新報社 1999年)
[編集] 共著
- 『経済政策の理論』(勁草書房 1964年)
- 『国際経済学』(岩波書店 1972年)
- 『企業金融の理論』(日本経済新聞社 1973年)
- 『現代国際金融論 理論編』(日本経済新聞社 1983年)
- 『現代国際金融論 歴史・政策編』(日本経済新聞社 1983年)
[編集] 共編著
- 『日本の土地問題』(東京大学出版会 1972年)
- 『日本の産業政策』(東京大学出版会 1984年)
- 『国際化する企業と世界経済』(東洋経済新報社 1989年)
- 『日本の企業』(東京大学出版会 1989年)
- 『世界貿易体制』(東洋経済新報社 1990年)
- 『ヨーロッパ統合と改革の行方』(東洋経済新報社 1993年)
- 『東アジアの経済発展』(東洋経済新報社 1996年)
- 『21世紀に向かう日本経済』(東洋経済新報社 1997年)
- 『日本経済 21世紀への課題』(東洋経済新報社 1998年)
- 『金融政策論議の争点』(日本経済新聞社 2002年)
[編集] 共訳
- J・M・ヘンダーソン、R・E・クォント『現代経済学』(創文社 1973年)