安原政雄
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安原政雄(やすはら まさお1910年-不明)は、ヤクザ、暴力団三代目山口組若頭、舎弟、安原会(安原心腹会)会長、通称マンマン。
1910年神戸市の鉄工所工員の四男として生まれた。尋常小学校卒業後不良となり、山口組二代目山口登の元へ出入りするようになった。 程なく実兄の安原武夫と共に山口登の若衆となった。 1946年に田岡一雄が山口組三代目を襲名すると、改めて田岡の若衆となり若き田岡を盛り立てた。
当時田岡よりも知名度のあった安原について、田岡を立てた以下の様なエピソードがある。
「戦後無名の三代目組長を諸方の旅館や温泉に同行し、人目に付くように自ら田岡の背中を流し『安原ほどの者に背を流させているのは誰だ』『あれが三代目だそうな』と噂の的にして田岡の顔を売り出した」(兵庫県警『山口組壊滅史』)。
1950年代前半には山口組若頭の要職に就き、山本健一、尾崎彰春、益田佳於等多くの人材を育てた。 1955年ころ田岡の子飼いの若衆が台頭してくると若頭の職を地道行雄に譲り自身は舎弟に直った。
舎弟に直った後も、数々の抗争(小松島抗争、広島抗争等)に中心的な役割を果たし山口組の武断外交に貢献した。 第一次頂上作戦に際し逮捕され、獄中で安原会の解散を決意、渡世から身を引いた。組は幹部の尾崎彰春が残党を再編し心腹会を結成している。
町井久之の歓待を目的として山口組の幹部で東京へ出かける者が多かった時期には「用がないのに出かけるのはみっともない」と苦言を呈している。博徒の美学ゆえか義理で金を集めてシノイでいる組とは一線を呈していたが、時代の波に乗り遅れた面も否めない。