宇喜多能家
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宇喜多 能家(うきた よしいえ、生年未詳 - 天文3年(1534年))は、戦国時代の武将。平左衛門尉、和泉守。宇喜多久家の子で、宇喜多興家の父、宇喜多直家の祖父。
赤松氏のもとで守護代を務めていた浦上村宗の家臣として仕え、備前国砥石城を領していた。孫の直家は後に智謀家として知られているが、この能家も智勇に優れた人物であり、村宗の信任が厚かった。1521年、村宗が赤松義村に対して下克上を起こしたときは、義村の排除に尽力している。
その後も村宗の家臣として各地を転戦して武功を挙げた。その功績は家臣団の中でも随一であり、時の管領であった細川晴元からも「名将」として賞賛されるほどであった。しかし1531年、主君の村宗が細川晴元と三好元長の連合軍に敗れて戦死すると、主君の死がよほどショックだったのか、突如として砥石城に隠居してしまった。
だが1534年、浦上氏の家臣であった頃から仲の悪かった島村盛実の奇襲を受け、砥石城にて自害を余儀なくされたのである。法名は常玖、または常珍。
子の興家は暗愚な人物だったと(またはその振りをしていたとも)言われ、その再興が図られるのは孫の直家の代になってからである。
なお、大永4年(1524年)に京都南禅寺の僧九峰宗成に描かせた能家の肖像画が岡山県立博物館に所蔵されており、国指定重要文化財である。