天正の陣
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天正の陣(てんしょうのじん)は、1585年(天正13年)に全国統一を目指す羽柴秀吉(豊臣秀吉)の命を受けた中国・毛利氏の小早川隆景率いる軍が四国は伊予国新居郡(現在の愛媛県新居浜市)に上陸し、金子城城主 金子備後守元宅率いる地元勢力を圧倒的な戦力で制圧した戦である。秀吉による四国征伐の中のひとつの戦いである。
1585年7月、毛利輝元は一族の小早川隆景らを四国討伐に向かわせる。総勢3万余の大軍が瀬戸内海を渡り新居郡内の御代島・沢津(共に現新居浜市)の二手に分かれて上陸し現地の城を破り進軍、新居の総大将 金子元宅率いる金子城を目指す。
金子城には周辺の城から武将が兵を率いて集結していたがその数わずか2千、戦況不利は誰の目にも明らかである。敵方に降伏する武将も現れた。かねてより伊予守護の河野氏を通じて毛利氏と友好関係を築こうと働いていたと思われる金子氏には、この軍に降伏し毛利の軍門に降る選択肢もあったであろうが、主である土佐の長宗我部元親に義理立てし徹底抗戦を決意。配下の武将もこれに従い金子城の志気は高まった。元宅は城を弟の対馬守元春に託して全軍指揮のために守護代 石川氏の高峠城に入り、兵を氷見(現 西条市)の高尾城に集めて軍勢を整えた。
金子城では二重三重に毛利軍が取り囲み容赦ない総攻撃が始まった。これに対し死をも覚悟して迎え撃つ金子軍の攻撃も激しく、また金子氏を慕う領民達も決起し毛利軍にゲリラ戦を仕掛けたと思われる。主だった神社仏閣も焼き討ちに遭うなどして一帯は壮絶な修羅場と化した。しかし多勢に無勢、やがて金子軍は力尽き金子城は落城した。
金子城を落とした毛利軍は休む間もなく高尾城に向けて進軍。7月12日、要所に陣取った毛利軍は攻撃を開始し城内の兵も果敢に立ち向かい、双方に多数の戦死者を出し激戦となった。7月17日、もはやこれまでと金子元宅は自ら城に火を放ち、野々市原に討って出た。ここに両軍入り乱れた最終決戦が行われ、奮闘虚しく金子元宅はじめ金子軍の武将はことごとく討ち果て毛利軍の勝利と終わった。
小早川隆景は、勇猛果敢に戦い武士の意気を示し討ち死にした武将達を称えて野々市原に千人塚を建て弔った。また焼け落ちた寺社の再建にも尽力したと云う。
この戦で伊予における最大拠点を失った長宗我部氏はその後各地で敗戦し毛利軍に屈した。