天文博物館五島プラネタリウム
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天文博物館五島プラネタリウム(ごとうぷらねたりうむ)は、東京都渋谷区の渋谷駅前、東急文化会館(2003年解体)8階にあった天文博物館。館名の「五島」は東急電鉄の創業者、五島慶太の姓にちなむ。2001年3月に閉館し、館の資料は渋谷区五島プラネタリウム天文資料に引き継がれた(投影機も同所に解体保存)。昨今では珍しい民間運営のプラネタリウムだった。
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[編集] 歴史
東京で最初のプラネタリウムは、1938年に開館した東日天文館(現在の東京都中央区有楽町)だった。しかし1945年に空襲により焼失、戦後しばらく東京近郊にプラネタリウム施設はなかった。国立科学博物館の村山定男などが動いて、国立科学博物館館長や東京天文台(現在の国立天文台)台長萩原雄祐などの学識者が東急電鉄に働きかけた。その結果、建設中だった東急文化会館の建物内にプラネタリウムの建設が決定され、1957年春オープンした。
[編集] 特色
直径20mの平床式ドームで、座席は同心円状の配置。投影機はドイツ(当時西ドイツ)のカール・ツァイス社製ツァイスIV型1号機。約1時間の投影は解説員が口頭で行ない、解説員は4〜5人交代で1〜2回/日の投影を受け持っていた。1日に最大7回の投影が行なわれた。
[編集] 施設
東急文化会館屋上に太陽観測用の望遠鏡(シーロスタット)があり、展示室の最奥部で太陽面を常時投影していた。ドームの周囲には歴史的な天体望遠鏡や天球儀などの模型、天体写真が展示されていた。プラネタリウム星の会会長や運営委員として関わりのあった野尻抱影の星の和名の展示が充実していた。入口に売店があり、天文グッズのほか、日本天文学会の会報「天文月報」が入手できた。関西系の東亜天文学会の雑誌「天界」のバックナンバーもあり、関東圏では手に入りにくかったことから重宝がられた。
[編集] 掲示板
1980年代「最も早い天文情報は、ここのドーム横の掲示板に張り出されたニュースだ」と言われていた。1985年10月8日夕方、人工衛星の落下直後に、光害の少ない所でジャコビニ流星群が突発的に流れたというニュースは、同館の掲示板が一番早かった。天文学に興味をもつ市民・学生は、最新情報を入手するために同館を利用するものもいた。1990年代に入ってパソコン通信による情報網が形成されたことが、館の存続にマイナス要因の一つになったのかもしれない。
[編集] 特別投影
平日には小中高校生向けの学習投影が行われた。一般客も希望すれば参加することができた。解説内容は、月の動き、太陽の動き(と季節変化)、星の動き、緯度変化と日周運動の変化、惑星の年周運動、座標系の基礎など、利用する学校の希望を組み入れた独自の番組が実施されていた。
また一般と小中学生を対象にした「渋谷五島プラネタリウム星の会」があり、毎月1回の例会が各々開催された。一般クラスでは、東京天文台(現国立天文台)や東京大学、京都大学などの天文学者を講師に向かえた講演を毎回聴くことが出来た。1月の例会では、国立科学博物館理化学部長の村山定男(後に同館最後の館長)による「今年の天文現象の解説」が恒例であった。小中学生を対象にしたクラスでは、解説員により天文現象や基礎的な天文の話題について、平易な内容で話を聴くことができた。例会の他、会員を対象に、1泊2日の恒例の観望会(夏または秋)や日食や彗星を観察にいくツアーも実施された。
その他、毎週土曜の最終回は音楽を聴きながら星を楽しむ「星と音楽の夕べ」や、生演奏によるクリスマスコンサートなどの「星空の下コンサート」も定期、不定期を交えて開催された。
[編集] 閉館の影響
このプラネタリウムの恩恵を最も受けたのは、たぶん首都圏各中学・高校の教師・教諭や天文クラブの部員だったのではないかと考えられる。天文部員なら当時は、このプラネタリウムへはたいがい数回位は訪れており、文化祭にて学習用の小型プラネタリウムで、星座の解説を、ここの口真似でするのは、いとも簡単なことであった。
学校のプラネタリウムを文化祭で持ち出しても、生解説がさっぱりできない今の首都圏の天文クラブの高校生を見ると、ここの閉館の影響の大きさが今更ながらまざまざと感じられる。