土御門晴雄
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土御門 晴雄(つちみかど はるお/はれたけ、文政10年6月5日(1827年6月28日)-明治2年10月6日(1869年11月9日))は、幕末の公卿で土御門家陰陽道の事実上の最後の当主。父は土御門晴親、子は土御門晴栄。家禄は183石。
天保4年(1833年)に従五位上に叙されて、同13年(1842年)に陰陽頭となる。安政2年(1855年)には正四位下となり、3年後の廷臣八十八卿列参事件に参加する。翌年には民部卿に転じて、元治元年には従三位となった。
明治維新によって江戸幕府が崩壊すると、新政府に働きかけて旧幕府の天文方を廃止に追い込んで、編暦・頒暦といった暦の権限のみならず、測量・天文などの管轄権を陰陽寮が掌握する事に成功する。当時の新政府の中においては、富国強兵や殖産興業に直接つながらない天文学や暦法に関する関心が極端に低かったのである。更に洋学者の間で高まりつつあった太陽暦導入に反対して、天保暦を改暦して太陰太陽暦の継続を図るように提案したものの、今度は逆に新政府の関心の低さが災いして、改暦は見送られる事になった。晴雄はなおも改暦を要求したが、病に倒れ43歳の若さで病死した。
後を継いだ嫡男・晴栄はまだ幼く、更に新政府内部でも陸海軍の円滑な運営に欠かせない天文や測量が古い陰陽寮に縛られる事への危惧や、非科学的な陰陽道が日本の近代科学導入の障害になる事が指摘されるようになり、新政府は晴雄の死の翌年の明治3年(1870年)、陰陽寮の解体を断行するのである。
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