大藤信郎
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大藤 信郎(おおふじ のぶろう、本名:大藤 信七郎、1900年6月1日-1961年7月28日)は、東京都浅草出身の日本の男性アニメーション作家である。
江戸千代紙による切り絵アニメーション、影絵と色セロファンを用いたアニメーションを個人で作り続け、アニメーション作家として世界的な評価を受ける。特に1952年にカンヌ映画祭に出品した「くじら」は画家パブロ・ピカソに絶賛されたことで、日本でも再評価を受けた。没後、大藤を記念して設けられた大藤信郎賞は、日本では最も歴史と権威のあるアニメーションの賞である。
東京の浅草のレコード録音スタジオを経営する家で、7人兄弟の末っ子として生を受ける。18歳で日本アニメ界の創始者の一人、幸内純一のスミカズ映画社に入って動画を学ぶ。1921年、21歳で自らのスタジオとして自由映画研究所(のち千代紙映画社)を自宅に設けた。そこで制作された江戸千代紙を素材にした切り絵の短編アニメーションは、劇映画の伴映として一般に公開された作品である。また、『鯨』(1927年)、『珍説吉田御殿』(1928年)はソ連やフランスに輸出され、ヨーロッパでは早くから知られた日本のアニメーション作家だった。しかし、大恐慌を迎え、アメリカのトーキーのカートゥーン作品が輸入されるようになると、大藤の作品が劇場公開される道は閉ざされ、第二次世界大戦中は文部省や海軍省から委託された作品を製作した。戦後も一般向けの作品を作ることはなく、宗教団体向けの日本神話や仏教を題材とした作品を作った。晩年は商業的な成功を得ることなく不遇をかこったが、自主製作した『くじら』『幽霊船』が海外の映画祭で評価を受けて、当時日本では過去の人となっていた大藤の名を残すこととなった。
大藤の長姉の八重は、信郎が6歳のとき母親が死去して以来、母代わりとなって公私にわたり末弟の信郎を支援し続けた。スタジオの機材一式を買い与え、姪の芳枝とともに助手として、弟子のいない信郎の創作を手伝ったのは八重であった。1961年、「ガリバー旅行記」完成と同時に信郎が脳軟化症によって没すると、八重はその全財産を毎日映画コンクールに寄託。その基金を元にアニメーション映画振興のために1962年より大藤信郎賞が設けられた。
[編集] 受賞歴
- ウルグアイ映画祭入賞 「蜘蛛の糸」(1946年)
- カンヌ国際映画祭短編部門2位 「くじら」(1952年)
- ベネチア記録映画祭特別祭特別賞 「幽霊船」(1956年)
- 文化庁文化功労賞(1959年)
- 第16回毎日映画コンクール特別賞(1961年)
[編集] 関連人物
[編集] 外部リンク
- 社団法人映像文化製作者連盟 - 評伝とフィルモグラフィー
- 日本映画データベース - 作品リスト