大田原晴清
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大田原 晴清(おおたわら はるきよ、1567年(永禄10年) - 1631年3月7日(寛永8年2月5日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。那須七騎大田原氏の当主。大田原綱清の嫡男。子に第2代藩主大田原政清。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、主君那須資晴は秀吉のもとへ参陣しようとしなかったが、晴清はいち早く秀吉のもとへ参じ、7000石の所領を安堵された。一方、資晴は遅参の罪を問われ、所領を没収されたが、資晴の子・那須資景(藤王丸)を伴い、大田原城に着陣した豊臣秀吉に陳謝。資景は、新たに秀吉から5000石を与えられた。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に属す。下野国小山に参じ、その後、本領に戻って会津の上杉氏(西軍)の南下に備えた功により、5000石を加増され、下野大田原藩1万2000石を立藩。
1614年からの大坂冬の陣では徳川方として参陣し、翌年の大坂夏の陣では本多正信に属して敵の首を70個挙げた。1622年、最上氏が改易されると、同年9月から10月にかけて山形城の守備を務めた。1628年から1629年まで、大坂城番を務めている。