多田等観
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多田等観(ただとうかん, 1890年(明治23年)7月1日 - 1967年(昭和42年)2月18日)は秋田県秋田市生まれの僧侶、仏教学者。
秋田市土崎港の西船寺の住職の3男として生まれる。家庭が6男2女の子だくさんであまり豊かではなかったため、小学校卒業時から檀家回りをして家計を助ける。秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)卒業後、勉学のため京都にのぼり西本願寺に入籍、法要を手伝うようになる。第二十二世法主の大谷光瑞にその才覚を認められ、ダライ・ラマ13世が派遣したチベットの高僧ら留学生3人の世話役と日本語教師を任される。等観はその過程でチベット語を習得してしまうが、逆に3人には完璧な秋田弁を仕込んでしまったため日本語教師の役を外されてしまう。
明治44年に中国で辛亥革命が勃発。ダライ・ラマ13世は留学生に一時帰国するように暗号文で連絡を寄せる。等観はすでに彼になついていた留学生に請われて彼らのインド行きに同行することになる。そしてインドにてダライ・ラマ13世に謁見。その場でトゥプテン・ゲンツェンという名前を授かり、ラサにくるようにと要請を受ける。1年のインド滞在ののち、等観はイギリス官憲の監視の目を逃れるため変装してインドを出発。ヒマラヤ山脈を越える過酷な道程を、高山病に苦しみながらもほぼ裸足で走破し、1ヶ月でラサに到着する。到着直後に、ダライ・ラマ13世は等観に正式のチベット仏教の修行を受けるように命じ、その身をチベット三大寺院のうちのひとつのセラ寺に預ける。同時に13世は等観に国際情勢の説明役の地位も与え、ポタラ宮などの主要宮殿への出入りを許可する。
等観は13世の寵愛を受け、異例の好待遇のもとで修行を続けるが、途中、日本での後見者の大谷光瑞が失脚。等観への送金は不安定になり生活に窮するものの、生家の西船寺から送られた金襴などで何とか糊をしのぐ。そしておよそ10年の修行ののち、名残惜しむ13世を背に、修行で得たゲシェー(博士)の学位と、門外不出のデルゲ版のチベット大蔵経全巻や、薬草、医学に関する秘蔵書や稀覯本など、13世が集めさせた24,000部余りの文献とともに日本に帰国。大正14年、東北帝国大学法文学部に着任。旧制中学卒という学歴の無さから周囲の無理解に絶えず苦しめられながらも、講義の傍ら、デルゲ版大蔵経と、蔵外文献の整理に当る。そして昭和9年「西蔵大蔵経総目録」を刊行。そして太平洋戦争と、アメリカのアジア文化研究所に招聘された期間の中断を挟んで、昭和28年に大蔵経以外の文献の目録「西蔵撰述仏典目録」を刊行。この業績により等観は昭和30年、共同で編纂にあたった学生らとともに日本学士院賞を受賞する。昭和31年、財団法人東洋文庫に迎えられ, ロックフェラー財団の支援にもと設立されたチベット学研究センターの主任研究員となり、その後は死ぬまで後進の育成にあたった。
等観自身があまり自分の体験をひけらかすようなタイプの人間ではなかったことと、旧制中学卒という学歴に対する差別意識などもあってか、同じチベット関係の仏教学者の河口慧海ほどには一般には認知されていないが、世界の仏教学の領域においては、その招聘した膨大なテキストの歴史的意義とともに、きわめて重要な存在であることは間違いがない。
[編集] 関連項目
[編集] 参考図書
- 『チベット』 多田等観 岩波新書 1943年
- 『チベット滞在記』 多田等観(著) 牧野文子(編) 白水社 新装版1999年 ISBN 4560030340
- 『多田等観―チベット大蔵経にかけた生涯』 多田明子・山口瑞鳳(編) 春秋社 2005年 ISBN 4393199014
- 『西蔵漂泊―チベットに魅せられた十人の日本人〈上〉』 江本嘉伸 山と溪谷社 1993年 ISBN 4635280233
- 『西蔵漂泊―チベットに魅せられた十人の日本人〈下〉』 江本嘉伸 山と溪谷社 1994年 ISBN 4635280241
- 『チベットと日本の百年―十人は、なぜチベットをめざしたか』 日本人チベット行百年記念フォーラム実行委員会(編) 新宿書房 2003年 ISBN 4880082821