堀直政
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堀 直政(ほり なおまさ、1547年(天文16年) - 1608年4月11日(慶長13年2月26日))は、戦国時代、江戸時代の武将。奥田直純の子、字は監物。尾張国中島郡奥田庄に生まれる。初め奥田三右衛門政次、のち直次といった。堀秀政の従兄弟で秀政から堀氏を賜る。堀直清(堀直次)、堀直寄、堀直重、堀直之の父に当たる。奥田直政と言われることもある。
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[編集] 秀政と共に
秀政の伯父の一向宗の僧のもとで秀政とともに幼少期を過ごす。この伯父が二人に、先に手柄を立てたほうにもう一方が従い、協力して家名を興すよう諭したといわれ、秀政が先に手柄を立てたので直政はその家臣になったといわれる。この種の逸話は加藤清正など他の武将にも見られ、創作であろうとの指摘もある。
従兄弟の秀政は十三歳から織田信長の小姓になる。直政は秀政の六歳年上で、同時期に信長の配下だったと思われる。直政の信長時代の史料は乏しく、秀政の補佐をしていたとすれば文官としての行政仕事が多かったのかもしれない。『寛永諸家系図伝』には伊賀亀甲城攻めで、精兵を率いて先登し、信長に賞された、伊勢峰城攻めで功を上げたとある。信長の死後、秀政と共に山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、長久手の戦い、雑賀攻め、四国攻め、九州攻め、小田原の役に従軍。秀政は小田原の陣中で病没。
「(天正)十一年太閤柴田勝家と合戦のとき、直政十文字の槍をもつて勝家の金の御幣の馬験を奪ひとる、ときに小塚藤右衛門某はせきたりて、直政にむかふ、直政馬験をなげすて小塚をくみふせ、其首を討とる、」(『寛政重修諸家譜』)
[編集] 秀治の家老
秀政の死後、息子の秀治が幼かったため、豊臣秀吉は、所領の北ノ庄を召し上げようと考え、秀治の襲封は滞った。怒った直政は息子の直寄を秀吉に使いに出し、書状で「左衛門(秀政)、多年の勤功あり、万一跡目たてられずんば、参りて御縁を汚さん」と訴えたため、秀吉は秀治の襲封を許した。慶長三年(1598年)、秀吉の命で、上杉景勝を会津へ、堀秀治を越後へ移す国替えが行なわれた。越後四十五万石を一族と与力で統治。春日山に堀秀治、蔵王堂城に秀治の弟堀親良、坂戸城に直政の子直寄、三条城に直政(城代に嫡男の直清)、新発田城に溝口秀勝、本荘城に村上義明(のちに地名を村上に改める)が入った。
[編集] 直江兼続との暗闘
秀吉の命による大名の国替えの際は、年貢米は半分のみ徴収し、残りの半分は後に来る領主のために残しておく決まりになっていて、上杉家と堀家にも同様の取り決めがあった。しかし、直江兼続と石田三成の謀議により、年貢米は全て持ち去られる(『越後風土記』)。堀家はやむなく新潟代官河村彦右衛門から二千俵の米を借りる。兼続は河村とは旧知の間柄のため、直政からの借米証を入手して、秀吉の死後さかんに返済を督促した。
[編集] 上杉遺民一揆前夜
上杉景勝は慶長四年、伏見から会津へ帰国すると、砦、道を修復し、武器、米を買い、浪人を雇った。直政はこれらの実情を徳川家康に報告する。家康は家臣伊奈昭綱を使者として会津に送る。その返答が直江状であるが、その中で、越後への野心を問われた際に「久太郎(堀秀治)ふみつぶし候に、何の手間入り申すべきや。橋架けるにいたらず、」と堀家を侮っている(直江状は後世の創作であるとの指摘もある)。家康は上杉討伐の軍を組織し、秀治にも「津川口から会津へ攻め入るべし」との書状を送る。これについて一族で合議する。直寄は太閤の恩に報いるため上杉たちと組むべきと主張。直政は太閤のみの恩ではない、信長公の御恩から起こったのだと主張。秀政も信長公の御子孫が衰退したことを嘆いていたと明かす。秀頼公の本心ではない、公の御為にもならない、家康の勝利は必定であると直政が言うと、一族は皆同意する。戦への備えをし、家康の指示を待った。
のちに石田三成から書状が来る。「前田利長、丹羽長重そのほか北国の諸将、皆上方同意なり、之に依り北国の通路を開き、景勝に合力して忠節せられるべし。」直政はこれは三成の策略であろうと見抜き、三成には善きように返答し、前田利長の家老へ問い合わせ状を出し、「利長、内府(家康)に対し、二心なき旨の、分明の返答あり。」との返事をもらい、家康方に付く決心を強くする。三成は直江兼続にも書状を送り、「越後の儀は上杉本領に候えば、中納言殿(秀頼)へ被下置候旨、御内意に候。」「堀久太も大阪方御奉公の志に候。」越後をまた上杉に与えてやる、これは秀頼公の内意だ、堀秀治も大阪側だと。
[編集] 上杉遺民一揆
直江の催促、三成からの書状により、上杉譜代の兵達が八千人、鉄砲が二千挺集まる(『北越太平記』)。兼続は身分の低い兵の内、智謀に富み、忠義のあるものを越後に浪人を装わせて潜入させ、寺社などに検地入を苦情の一つとして一揆を起こさせ、堀家の会津入りを遮らせようとした(『越後風土記』)。八月一日、一揆は奥広瀬から起こり、小倉主膳の守る下倉城を囲んだ。小倉主膳は討死したが、救援で駆けつけた堀直寄が数百人を討ち取り一揆を鎮圧した。直政は柏崎方面へ出陣し、一揆を鎮圧。七月二十一日、上方で石田三成が挙兵していたたため、家康は江戸に戻る。直江兼続は家康追撃を景勝に進言するが、景勝は「此度の儀は堀直政の讒言により、家康が仕掛けるため、ひと合戦と支度をしたり、されど家康が此方に構はず、江戸に引取るに於いては、此方も会津へ引取るべきは理の当然である。」と出陣を拒否した。九月二十一日、一揆鎮圧の功により家康から感状を賜る。関ヶ原戦を境に一揆は自然消滅していった。
[編集] 関ヶ原の戦い以後
慶長六年、家康は秀治に書状を送り、佐渡で起きた一揆の鎮圧を堀直政に討伐させるよう命じる。佐渡は徳川の直轄領になっていた。慶長十年頃になると、家康の命により、北政所の望む秀吉の菩提寺の建設にかかる。秀吉が生前建てた康徳寺を移転、拡張し、高台寺を建てる。費用の半分を直政が負担した。開山堂内陣には直政の木像が祀られている。高台寺建築中、伏見に滞在しており、このとき家康に秀治の息子に徳川家の嫁をもらえるよう懇願していた。家康はこれを聞き入れ、外孫にあたる本多忠政の娘百合姫を徳川秀忠の養子とし、嫁がせた。さらに、秀忠の一字を送り、忠俊と改名させ、松平の称号も送られた。 慶長十年(1605年)、同族の堀親良と対立する。慶長十一年、秀治が病没。慶長十三年(1608年)、62歳で死去。歴戦をくぐり抜けた勇将であったと言われている。
[編集] 人物
『名将言行録』に天下の三陪臣というのが挙げられていて、直政もそのうちの一人。 「陪臣にして直江山城(兼続)、小早川左衛門(隆景)、堀監物杯(直政)は天下の仕置をするとも仕兼間敷(しかねまじき)者なり。」
[編集] 参考文献
- 『織田信長家臣人名辞典』 谷口克広著 吉川弘文館 1995
- 『堀家の歴史』堀直敬著 堀家の歴史研究会 1967
- 『寛政重修諸家譜』 巻第七百六十六