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坂本 將貴(さかもと まさたか、1978年2月24日 - )は埼玉県出身のサッカー選手である。ポジションは主にMF。日本体育大学卒業後、2000年、ジェフ市原(当時)に入団。大学時代までは攻撃的なポジションの選手だったが、クラブでは守備力に注目されて、右サイドのレギュラーに定着。以後、チーム事情によって時折、ストッパーやボランチとしてプレーすることもある。 相手のキーマンを徹底マーク。ジェフに欠かせない存在。
[編集] プレイスタイル
- 大学時代のポジションは本人曰く「トップ下」。今の運動量と堅実さを武器にしたプレースタイルは当時を知る人にとっては信じられないだろうと語る。
- 調子に波がなく、スタミナも豊富。また、クリーンにプレーする選手としても評価が高い。2002年・2003年のリーグ戦は全試合フル出場、つまり、警告の累積による出場停止がなかった。
- そのため、「計算できる戦力」としての坂本の価値は高い。しかし、2004年9月11日の東京ヴェルディ戦で痛恨のレッドカード。次節が出場停止となり、その年のリーグ戦出場試合数は「29」にとどまった(2004年までのリーグ戦は全30試合である)。
- 2005年シーズンは、移籍した村井慎二(現ジュビロ磐田)の穴を埋めるために左サイドでプレーすることに。坂本のいた右サイドには、若手の山岸智、水野晃樹が入った。
- オシム監督(当時)がいうには「(左右両足を使える)坂本以外に左サイドでプレーできる選手がいなかったから」ということだが、坂本自身はこのポジション変更により、さらに自分のプレーの幅をひろげた。
- 利き足は右だが、左足からのキックも非常に精度が高い。
- 村井の移籍当初は「ジェフの左サイドはどうなってしまうのか」と、サポーターの不安は大きかったが、2005年シーズンの坂本の躍動ぶりは、その不安が杞憂であったことを知らしめた。
[編集] 経歴
大門少年団(浦和市)→浦和市立美園中→浦和東高校→日本体育大学。
[編集] 戦歴
[編集] Jリーグ通算成績
年度 |
チーム |
リーグ |
背番号 |
リーグ戦 |
カップ戦 |
天皇杯 |
J・J1 |
J2 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
2000年 |
市原 |
J1 |
23 |
0 |
0 |
- |
0 |
0 |
0 |
0 |
2001年 |
市原 |
J1 |
23 |
19 |
3 |
- |
4 |
0 |
4 |
0 |
2002年 |
市原 |
J1 |
23 |
30 |
1 |
- |
7 |
0 |
4 |
0 |
2003年 |
市原 |
J1 |
23 |
30 |
1 |
- |
2 |
0 |
3 |
1 |
2004年 |
市原 |
J1 |
2 |
29 |
1 |
- |
4 |
0 |
1 |
0 |
2005年 |
千葉 |
J1 |
2 |
34 |
2 |
- |
5 |
0 |
2 |
0 |
2006年 |
千葉 |
J1 |
2 |
34 |
1 |
- |
|
|
|
|
通算 |
176 |
9 |
- |
22 |
0 |
14 |
1 |
[編集] 備考
- チームでは選手会長を務めていて、若手を引っ張っている。
- サポーターには、その闘志あふれるプレーぶりから「隊長」と呼ばれ親しまれている。
- 声がやや高く、ジュビロ磐田の「隊長」中山雅史に声質がちょっと似ている。
- 愛嬌があり、チームのムードメーカーとしても、なくてはならない存在である。
- かつてジェフに在籍していた中西永輔(現在横浜F・マリノス)とはプライベートでも仲がよく、坂本に釣りを教えたのは中西である。「ミスター・ジェフ」として長年サポーターに愛されてきた中西の背番号「2」は、いま、坂本に受け継がれている。
- タレントの大桃美代子とは、いとこである。
- 教育実習で母校の浦和東高へ行った際、受け持ったクラスに名古屋グランパスエイトの川島永嗣がいた。
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